陶玄郷

フラクタルの森で薪だけを使い備前焼を焼きながら迷走、瞑想している玄明のホームページ

FrontPage/2025-01-06

Top / FrontPage / 2025-01-06

創造主・神々の光の力と闇の力

色々抽象的なことを書いてきたが、結局のところ、この世界には、目に見えているモノと見えていないモノで成り立っているとも言える。


解かっているモノと解かっていないモノとも言えるだろう。
科学が進歩したと思えるような現代社会でも解かっていないことは多い。
人間が活用できている事の中にも、その原因を解からずに使っていることも多い。電気もそうだし、重力もそうだし、本物の科学者から見れば、解からないことばかりかもしれない。

科学者でもない私に理解できることは、大雑把に世界を見て推測するだけだ。陰と陽、見えていない世界と見えている世界、こういう分類の元で考えるしかない。
見えている世界は、人の目に触れて認識される。
しかし、電気にしろ電波にしろ目には見えないし、電磁波とか放射線とか見えないものは沢山ある。
さらに見えにくいモノを挙げれば、きりがない。
なにを言いたいのかというと、陰陽道ではないけれど、目に見えない力がこの目に見えている世界に働きかけているということ。
そこには小さな力が集まったモノから、基本となる大きな力もあるだろう。

その力とは何だろうかと考えると、霊的な力、霊波、思念の力、振動の力であり波動の力、表現は様々出来るだろうが、もっと具体化してみると、私たちの身の回りにある人間が関わって出来ているもの、全てが「思い」によって出来ているということを無視することはできない。
小さな力が集まり大きな力となっているモノも有るだろう。

そして、見るか見ないかに関わることで言えることは、「光」の存在がある。この力は大きい。とてつもなく大きいだろう。
この基本にある光そのものも粒であり波だという。
光とは何かという所まで行かなければ、この宇宙の存在を解き明かすことはできないだろうが、そこはあきらめるしかない。
あの二コラテスラは、光が全ての元であるとも言っていたようだ。
確かに光の持っている神秘性は簡単に見極めることはできないだろう。

極々シンプルに見るならば、この光の波動という振動の周辺に、様々な思いの波動が流れているのかもしれない。
ありとあらゆるものを含んで振動している。
そこにどれだけのモノが含まれているか分からないが、言い換えると、創造主、造物主の意志がその光に含まれていて、その子供たちというか、分身の思いがしっかりと含まれている。
比喩で言えば、間違いを犯した者たちも抱きかかえいるのが、その光の束かもしれない。
神を光としてとらえるしかないのかもしれない。
一部に、神の光を遮り、自らが闇の世界に引きこもるモノも出るが、それすら光の内に抱え、光が差し込む時を待たれているというのが本質なのかもしれない。

この世界は神の光そのものであり、その中に様々な思いが波動として在り、現実社会に影響を与えている。
その波動の中には、光の本質に沿ったものが大部分だろうが、神の光を自ら遮るようなものもある。
次の図の創造主から発せられる光が、神々を貫き、天使たちや指導霊守護霊を通じて、地上に生きる魂たちを貫いている。
この光の願い、創造主から発せられている願いは、一本の大きな光の柱自体をより大きく、より素晴らしくしようと思われているとも言えるかもしれない。

ただ、今という時代は、神の光を引いている者たち、その魂たちの波動と対抗して、光を遮ろうとしている魂たちが居るということ。
その闇の勢力が増えすぎて大きな勢力になっている。
闇の波動と光の波動が拮抗している。
逆に、闇の波動が勝っているようにも見える。
その根拠は、信仰を失い、神の光を無視するような司祭や僧侶たちも増え、多くの社会のリーダーたちも光から離れ、闇の世界を広げようとしている。
その闇からの霊波を多くの者たちが拾っている。
光を強く求めなければならない時代が来ているということだろう。
潜在意識



コメント


認証コード(5751)

powered by Quick Homepage Maker 5.1
based on PukiWiki 1.4.7 License is GPL. QHM

最新の更新 RSS  Valid XHTML 1.0 Transitional

備前焼