陶玄郷

フラクタルの森で薪だけを使い備前焼を焼きながら迷走、瞑想している玄明のホームページ

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霊的な力

この世界には不思議な力が満ち溢れているようだ。
正直言って普段に使っている電波なども不思議である。
昔、ラジコンでプラモデルを自由に動かせることも不思議だった。
繋がっていないのに、こちらの意志に従って動いてくれる。
線が繋がって動かせることは何とか理解できる。
しかし、人間の体も手足などを動かすのに神経が繋がり、自由に思い通りに動かせるけれど、これがラジコンなどと同じようには観えない。
合気道などで、少ない力で相手の動きを制することができることなどは、無線で繋がっている事とも似ている。


ただ、プラモ、ラジコンの配線を流れるものと、人間の神経を流れる電気と同じものではなさそうだ。
ラジコンやスマホなどで使われている電気もあれば、人間の体で使用されている電気もある。
スマホなどは、無線でつながり色んな仕事ができる。
人間の中で使われている電気も、その個体に限定されず働いているものもあるだろう。例えば合気道などで使われている「気」の力。
離れている相手の体を自分の体の如く自由にコントロールできる世界もある。

どうやら、電気と言われるモノは、単純ではないようだ。
電気は、そもそも目には見えない。
目に見えるように明かりをつけたり、何かを動かしたりできれば見えるようになる。
スイッチを入れれば見えるようになるということは、物理法則でもあるだろうが、このことは量子論の中で言われる素粒子に粒と波の二つの性質があることを示しているのかもしれない。
観測者が居れば粒としての性質が出るが、観測者が居なければ波としての性質が顕れるという。
要するに誰かがスイッチを入れれば現象として具体的に表現が可能だが、スイッチを入れなければ、ただ、波として電線の中に存在しているだけなのと似ている。

私たちが使っている電気や電波とは別に、同じようでありながら、それとは別物の電気や電波である可能性は高い。
時折、不思議な人が居て、オーラの光が見える人がいる。
また、一部には聞こえるはずのない声が聞こえるという人も居る。
私にはそのような力は無いけれど、自分の魂の奥から出てきたような声を聴くというか、まったく意識もしたことのない内容が言葉として浮かび上がり、意識し自覚したことが何度か有る。
これらも、考えるなら何らかの電線なり無線での電気の流れにスイッチが入り、見えたり聞こえたりしているともとれる。

正直言って、それらがどのようなことで、なんで起きている事か分からないけれど、間違いなく、電気や電波と似たようなものが存在している。
考えれば、全ての原点に波と粒の性質があるのなら、その中間の狭間がどこに有るのか、スイッチがどこにあるのか解からないけれど、粒に近い電波や波に近い電波もあるのかもしれない。荒い波動と精妙な波動というべきかもしれないが、どうやら一律の存在では無いと見るべきなのだろう。

人間を考えても、生きて活動をしている時は「粒」の状態で、肉体に宿れているということであり、魂も粒の状態に近いのであるかもしれない。
死んで肉体を離れるということは、粒の状態から離れ本来の波の状態に戻るということ。
ある意味、人間であることのスイッチが切られた状態であり、電線の中の電気のようになっているだけでしかないのかもしれない。
空中にある電波のようになっているだけかもしれない。

そのように考えると、臨死体験した人の話が納得いく。
意識が肉体から浮かび上がり、天上辺りで漂い、全部の風景を見ている。
そして、壁を隔てていてもそこに居る人々の思いが自分が思っているかのように伝わってくるという。
まるで電波のように壁をすり抜けることも出来れば、意識ができれば、過去にも未来にもタイムスリップが出来て、時間だけでなく空間移動も出来るという。

どうやら、この霊的な電気や電波の精妙さは、この世を離れた広大無辺な宇宙と素粒子なる存在で繋がっている可能性がある。
ということから考えると、再誕の仏陀、大川隆法先生から学んでいる様々な事が真実味を持って浮かび上がってくる。

この世界は、どうやら霊的な波の世界に浮かんでいて、一時一部で粒の状態である三次元世界で暮らしているということ。
その霊的な波とは何かというと、基本、大きな、しかも精妙な「愛」の波として、様々な波動を含みながら振動している。
この大きなという表現も適切ではないだろうが、愛しみ育む心が大きな光の柱として存在している。光としてしか表現できないけれど、それが基本の波となり全宇宙を覆っている。
そして、電波も電気も神の光の一部であるだけかもしれない。
その光のどの部分にも「愛」があり、「知」があり、「反省」があり、「発展」がある。
この光を電波とか霊波とも言えるだろうが、やはり、光と表現するしかないのだろう。

根本仏の光、創造主の光がすべての全てに寄り添い流れている。
私の陰陽学には血液型の性質で見る部分があるが、O型の人は、悟性が前面にあり、その悟性とは何かというと人間の持っている本質である「お役に立ちたい」という光を帯びている。
その基本的な光を帯びているためにシンプルで面倒見が良い面がある。
B型の人は、「感性」を通して、A型は、「知性」を通して、AB型は、その両方、「理性」という光を通してお役に立ちたいという思いが有る。
全ての存在は、何らかの愛の形、何らかの役目を含んでいる
この神の光が全ての全てである可能性があるということ。



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