FrontPage/2024-11-29
心とは
心とは、何かと考えると分らないというしかない。
しかし、目には見えないけれど、確かに存在し、思考することが出来、あらゆる表現方法があり、いろんなものを創造することも出来る。
その心がどこに在るのかという問題もあり、脳に有るかのように言う人も居る。確かに頭で考えているようではあるけれど、感動ということを考えると、頭で、理屈で考えて感動しているわけではなさそうだ。強い感動は、胸の中、心臓のあたりで湧き上がって来るようにも感じる。
脳には右脳と左脳があり、担当している要素に違いがあるようだし、ある程度の範囲でその違いが分かっているようだ。しかし、人体を考えても、脳のどの部分が体のどの部分と関連して旨く機能してくれているのか分からない。
昨日も書いたけれど、経験で積み重ねられた知識をベースにしてだけで考えているのではなく、どこからか降りて来るインスピレーションといったものも有る。発明や発見、人類にとって価値のあるモノの多くが、このインスピレーションから得ているという。
絵画や詩や彫刻、物語などの芸術的なことで感動することも人としての人格にも深く関わることだけれど、これらこそ、なぜ感動が起き、それを原動力として人々は影響され行動していくのか、この重要な、ある意味右脳的な感覚がどういう流れで、どこで起きているのか分からない。脳だけでなく、体全体で感知している可能性が有る。
このインスピレーションがどこから来て、どこが受け取っているのか分かっていない。
左脳的解明で不可能なら、そこからいったん離れ、全体で感じ取るしかないだろう。そうすると、内から湧き上がって来る情報(波動)と、外から降りて来る情報とが在るということ。
外から来るモノが何であるか分からないが、内から湧き上がって来るモノも判らない。潜在意識というモノが有り、そのどこにつながっているのか分からないけれど、この内から来ているモノも、外から来ているものかもしれず、内からと外からというように分けられるモノではないのかもしれない。
ユングは、心の構造を氷山に例えていたが、無意識化の世界には、膨大なモノが有るという。
私のこの図は、それも参考にしているが、この図の問題は、創造主の意識が、本当は地下深く広く広がっているのではなくて、宇宙全体、個人の全てにまで広がり、全ての全てを覆いつくしているということが表現できていない。今まで、大川隆法総裁の教えや、色んなスピリチュアルな情報を統合しても、どうやら、それが真実ではないかと思えるのだ。
人は、表面意識で考え行動しているが、実は、悟りという言葉で表現するべきなのかもしれないが、心の世界のどことつながるか、それに関わる機能を私たちは持っているようだ。
動植物にしろ、微生物にしろ、無機物であっても、すべての全てが、その創造主につながり交流してその波動が流れているということではないだろうか。
人間にしても、成長の過程で乳歯が落ち永久歯に生え変わることも、成長の過程で生殖本能が立ち上がり子孫を生み出すことも、衰退し死に至ることも、全て、この創造主の発している波動から拾っている可能性が強い。
このシナプスの連結のように、潜在意識のどこにつながるのかをコントロールしているモノが、それぞれの中にある。
それが「悟り」とひとくくりで言われているものかもしれない。
しかし、この悟りとは別のモノ、沼地に足を踏み入れ、次第に深みにはまっていくこともある。
それが、ディープステートであり、グローバリストたちだ。
創造主の波動の波に乗らず、堕天使、要するに悪魔の波動につながっていくもの達が後を絶たないことが起きている。
一度でも闇の世界の影響を受けた経験のある人なら理解できるだろうが、そのスイッチ、そのハンドルの中にあることは、自分さえ良ければ良いとまで思わなくても、自己中であり、自分本位である。その先には、巧妙な理屈を加え、他者から奪っても良いという判断になって行く。
今の世界の政治の中に、それが見て取れないとするなら、その人たちは沼地に足を踏み入れてしまっている事を知るべきだ。
反省し、早急に沼地から足を抜かなければ、たとえ目先に繁栄があり倉が建つようなことがあったとしても、闇の世界に、奈落の底に落ちて行くことになるだろう。
ほとんどの道をそれた者達は、刑務所に入ることになる。
その犯罪が露見して、反省の機会を、その時間を得るならまだ救いがあるだろうが、頭脳優秀でうまく生きている間、切り抜けられたとしても、肉体を離れ、波動だけの存在となったときに、同じ波長の者たちとしか存在できないとすれば、弱肉強食の世界、ケダモノの住む世界となるだろう。
そこから向けだすには、その波動とは逆のものを出すしかなく、その苦しみは筆舌に尽くしがたいものが有ると言われている。
古い仏教の、地獄絵図などは、誇張でも何でもなく、実際に存在するようである。
因果の法、原因結果の法則は、科学の世界でもあるように、心の世界でも
現実に在る。
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