陶玄郷

フラクタルの森で薪だけを使い備前焼を焼きながら迷走、瞑想している玄明のホームページ

FrontPage/2024-11-19

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考えるということ

基本


人間にとって、正しく情報を伝え理解しあう為には、この7つの要素が不可欠。
ただ、普段は、ドウヤッテ、ドウシタイという「行い」(二重線の上)だけで考えがちです。
その下の「なぜ」という動機や原因を考えたり、その課題の本質や背景を深く見ようとしない。
その背景である「世界」も物理的現象世界だけで見て、思いの背景にある抽象的心象世界を無視しがちです。
今、ここに居る、自分が考えるのであり、今という時代や、この地球という場所や、自分の存在している意味など考えず、目の前に在る成果だけしか見ようとしていない。

これは、「人間とは考える葦である」という哲学的な言葉が理解されていないためなのかもしれない。人間はひ弱な存在だが、人間が万物の霊長としての立場に居続けるための、その考えるということを放棄しているのが現代ではないだろうか。

社会が構成されるのに、道徳が大切だと言われますが、道徳は思想、哲学、宗教が背景に有っての事なのに、現代教育では、何を恐れてか、基礎的な宗教教育でさえ避けられ、唯物論、無神論という思想が蔓延し、無宗教という宗教まで広がっている。
そのために、人間とは何か、なぜ生まれ、なぜ生きて、一体どこへ行こうとしているのか分からず、ただ目先の利益、結果ばかりを追い求め、社会を混乱させている。
これは、左脳的にだけ優秀な人達に起こり易く、無知の知を知らず、驕り高ぶり、自分たちを神の如く考えているからです。

見えている世界だけで考える、その思想が真実であるなら、その国の支配者が神に成り代わるのも当然でしょう。この無宗教も宗教の一部であり、強度の一神教にもなります。
戦争は、利害の対立で、一神教の間で起こり易く、他宗を排撃し激しさを増していきます。
その無宗教で国づくりをしているのが、中国、北朝鮮であり、先進国にもその勢力が広がりつつあります。

真なる世界を求め、善なる価値観を広め、美しい社会を求めるべきです。

経済であっても、プラススパイラルを生み出すのは、「与える愛」が起点に有ってのこと。世界を見間違え、偽物の世界観を持ってしまうなら、善悪の感覚も逆転し、この世界は醜いものになってしまうでしょう。
真善美という価値観の反対のもの、偽悪醜の世界が蔓延し、天からも見放されてしまうでしょう。              



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