陶玄郷

フラクタルの森で薪だけを使い備前焼を焼きながら迷走、瞑想している玄明のホームページ

FrontPage/2024-11-16

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直線と円環の見方

考え方に二種類あって、その違いが分断に影響しているのではないだろうかと、時々思う。
最近、ある友人の発言で強いショックを受けたことが有った。


それは、転生輪廻を信じることも出来ないし、認めないということ。
宗教などで、色んな人生で起きる出来事は、前世のことが原因だとか、この世でやったことが来世に影響するとか、そういうことに違和感を感じるというのだ。前世とか来世を持ち出して人をコントロールしようとして、言いくるめようとすることに問題を感じているようだ。

彼を良識があり、思慮深い人だと思っていたのでショックを受けたのだ。
彼は、倫理法人会に属して活動している。
私は、その「倫理」という言葉がイメージ出来ないので、その意味を聞いてからの会話だった。
倫理とは、法則のことだという返事だった。
こうすればこうなる。仕事にも法則があり、良い思いで良い行いを続ければ良い成果につながるということのようだ。
この世、この現実の世界でその法則は有るのに、前世や来世を持ち出して人を操ろうとするところが気になるようだ。
見えない、しかも証明できない世界のことを引っ張りだされることに疑問を持っているのだろう。

確かに、悪い宗教は、その無知に付け込み、自分たちの教義に引き込もうとすることがある。見えない、証明不可能なことを幸いに、言いたい放題で暗示にかけ、自分の都合に良い方向へと導こうとする。

この話の中には、二つの要素が含まれているようだ。
それは、思考と行動と結果を見る時に直線での場合と、円環での循環が有るということ。
もう一つは、その起点となる、思考(思い、動機)の中身の問題があるということ。

基本

物事は、企業の仕事でも、人生という仕事でも、親行という仕事でも、ボランティアという仕事でも、全て同じであり、この図の4つの要素の循環で決まる。
ただ、その循環を一回だけ、もしくは、数回の繰り返しだけで見る場合とがある。
もう一つは、この循環が、今世や来世を含めて、永遠に循環しているという見方も有るということ。
この違いは何だろうかと考えると、霊的人生観の理解の違いのようだ。
深さ、広さの違いであり、霊的人生観とは、思いのレベル差が大きく関わる。

この図での、いつ、どこで、だれが、に対する理解が、その思いにどれだけ影響しているのかということ。
今、ここに居る、自分という存在だけで考えるのが普通だろう。
そこで、自分が正しいと思う価値観で考え行動するのも普通だ。
しかし、ひと、とき、ところを変えれば、正しさに違いが生まれてくることも当然のこと。

その違いを経験し、悟り、自分を高めていくために、様々な人生を経験するために転生輪廻が繰り返されていると私は学び、信じて受け入れているいる。
おそらく、彼には、そのような霊的人生観を理解できていないためのことなのだろう。

もう一つ、この直線だろうと円環だろうと、その流れの中で重要なポイントがある。
思い、動機の純粋さが関わってくる。
思いにも、愛にも、良い子、悪い子、普通の子がある。
天使たちは、前提が良い子であるが、悪い子である悪霊悪魔は、前提からして自己中であり、利己的な視点でこの循環を練り上げる。
また、悪い子たちが、周囲に広げる考え方は、直線的であり、こうすればこうなるという、寸断された中でのご利益を強調するだろう。
政府や公的機関のバラマキなどが良い例だ。
目の前に餌をバラマキ食いつかせる。その後、吊り上げられ彼らの食卓にのせられ食べられてしまう事までイメージさせないようにする。

彼のあの時の発言で、なぜ、私がショックを受けたのか、こうやって書いていてハッキリしてくるけれど、悪霊や悪魔の常套手段に載せられているということを感じたからだろう。

原因や結果の流れは、途中で止まることは無い。
今世での思いと行いの循環は、円環として永遠に続く。
それを苦痛と感じる向きもあるかもしれないが、しかし、その修行は、根源なる神仏の領域に近づくことであり、幸福の極みに至ることなのだと思う。
山登りで、途中の苦労が、山頂に上り、周囲を見渡した時の清々しさを感じる喜びに似たモノなのだろう。



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