FrontPage/2024-10-05
参加者中心の考え方
人々の認識力を上げるために色んな取り組みが行われている。
その中には、幼少期の学校教育も有れば、家庭で行われている様々な取り組みもある。成人してからは、色んなセミナーや講演会もある。
要するに人間は、一生学び続けなければならない宿命を持っている。
その学びの内容は、単純化してみると、仏教で6根6境6識と言われるように、目耳鼻舌身意識(ゲンニビゼッシンイ)から入って来るもので成り立っていることから始まる。
山岳修行者が六根清浄と唱えながら山を走破するように、認識の受け手である所が濁りなく清らかであることを願う形もある。
6つの受け手と、6つの環境、境地があり、6つの認識が生まれるということ。
整理するなら環境の中で認識は生まれるということ。
ただ、仏教では他力門と自力門が有るように、外部から教えられるものと、受け取る側の意識の問題があるということ。
認識の元には、環境から与えられるものと、自分自身の中から出てくるものとがあるということ。
再誕のブッタ、大川隆法総裁の教えの中に、法灯明と言われるように、光は霊界から降ろされるモノもあれば、自灯明と言われるように、自分自身の内面から輝きだすものもある。
本来、人間は仏の子である以上、仏の性質、神の性質が内面の奥深くに有る。意識が清らかであればその光も心の奥から漏れて来て、外部から与えられる情報と相照らすような現象も起きる。
これは陰陽学的に言う所のものと同じであり、雷が起きるのにも天と地、双方に要因が必要だということ。川が生まれるのも高低差があり流れが生まれること。波長導通で言われるように同じものが同調するということ。
ただ、心清くなければ、同じ濁ったものと同調し、間違った認識になりかねないということもある。
・・・・・最初に書こうとしたことと違ってきたが、結論的には、「正しき心の探求」の重要性を再確認することになったということだろう。
何が言いたかったかというと、学ぶにしても、単に本を読んだり、話を聞いたり、見たり聞いたりしながら学ぶにしても、ただそれだけで良いわけではないということ
昔、論語の素読など普通に行われていたように、自らが声にして発する行為の中に、自分の中に有る光を掘り出し輝かせようなことがなされていたように思う。素読する本人には意味不明であっても、その中に含まれる波動が本人の魂に影響する。その時には、その波動の中身が理解できなくても、間違いなくその波動の影響を受けている。
骨董品の目利きの事でもあるが、主人が弟子を育てるのに、最初から本物に触れさせるという。偽物で扱いを慣れさせることをせずに、本物の波動を感じさせ覚えさせることで真贋を見極める力をつけさせることのようだ。
正しい認識を得るためにいろんな方法が有るだろうけれど、学校教育などで学ぶということの多くが、ただ、そのまま覚えさせようとする。
この左脳的に学び記憶するというだけでは、心の奥に在る元々ある光からの検証が出来ていないことでもある。ただ、暗示にかけやすいというだけのこと。
ここでも、陰と陽のキャッチボールが必要だということが分かる。
フラクタルの森的に言うと、左脳的なモノと右脳的なモノとのキャッチボール。要するに深く感じさせ、考えさせる仕組みが必要だということだ。
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