陶玄郷

フラクタルの森で薪だけを使い備前焼を焼きながら迷走、瞑想している玄明のホームページ

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中道を探る

中道の哲学という教えで学んだことだが、中道とは中ほどの道という意味ではなくて、正しさという意味を含んでいるということであり、中間であれば何でも正しいというわけではないということ。
状況、人時所の違いのよって正しさは違ってくる。


例えば、今朝のニュースでも有ったけれど、自動車会社に国交省の査察が入ったという。
メーカー、製造側の立場と、管理し規制する政府の立場とで考えると、メーカーの自主性に任せてより安全で良いモノが人々に届くのが理想で有るけれど、あまりにも放任主義過ぎて堕落し国民が被害を受ける場合もある。
しかし、管理し過ぎて安全の基準を強くすれば、メーカーの自由闊達さを抑え産業の沈滞を招くことも有る。
国民の受ける利益を考えたなら、その状況の判断によって、正しさの落としどころも変わってくる。

この正しさを求める作業には、どのようなことも、この人と時と所の違いが大きく関わってくる。どういうことかと言えば、どの要素にも質の問題と量の違いがあるということ。一番大きな要素は、人の問題だ。
それに関わっている人が信頼できて任しきれるかどうか。
信用の出来る人に任せておけるなら、少々不備な面があっても大丈夫だろう。
子供で考えてもそうだが、任せっきりでも大丈夫な子と、細かく見ておかなければ不安のある子といる。ただ、その子供の評価、人への評価が問題ではある。その見方に対する正しさの評価も有る。
皆、自分が正しいと思い判断するのである以上、全てに曖昧さが残る。
難しい問題を常に含んでいるが、複眼で常に見る努力が有れば危険は少ないけれど、どうしても感覚的になり過ぎて暴走しがちである。

テレビのニュースを見ても、政府が正しくて企業は利益を重視するあまり誤魔化すものだという刷り込みが有れば、それほど強い思い込みでなくても、どうしても、報道の表面ばかりを見て単純にその論調を受け入れてしまいがちだ。
この表面で誤魔化される傾向性、深く考えずに判断しがちな面は仕方がないのかもしれないが、正しさを求め見極めようとするなら、常に正しさの探求を怠ってはならない。
どうしても対処療法の表面的な所で推移して、根治療法を怠ってしまう。

今、盛んに議論されている政治資金規正法などでもそうだ。
根本原因は、政治には金がかかること、一票の重さが言われるけれど、この重さの中には、よくも悪くも、一人一人の「欲」も含んでいること。
悪い欲を拾いそれに答えようとするなら、悪い政治として現れる。
理想を目指すような良い欲を拾うことが出来るなら、良い政治となって現れるだろう。

今のような単純な、一人一人の利益の代表を選ぶような制度では、一票のの価値が悪い方向に向かうだろう。一人一人の欲を代弁するような政治では、動物的な勝ち負けを含みがちだ。未来を見据え、より良い社会を創ろうと思うならば、良い欲を拾うような制度が不可欠だ。
団体、企業からの政治資金の中にも良い欲も悪い欲も含んでいる。
企業が社会を支え、国民生活を支え潤わせている以上、企業の意見は重要であり、その意見を吸い上げるためにも企業献金が有るのだろうが、その意見にも独善的な意見の政商的なモノもあれば、未来を見据えた先見性を含んだものも有るだろう。

以前、大川隆法総裁が講演会の時に言われた選挙制度に関する事が頭から離れない。書籍にもなっているはずだが、どの本に載っているのかいまだ見つけることが出来ないでいる。
それは、今のような参議院と衆議院のような二院制ではなく、一部は、今の個人の利益の代表を選ぶものも有ってもいいが、参議院に代わるものとして、企業団体から産業の視点から徳ある人を選んでもらうという部署と、今の官僚システムの様な、科挙のような資格を有し専門知識を持った人を登用するような部署とで構成する政治体制。
産業代表の人は、再選は認められず、人生最後の社会への報恩として、それまで培ってきた経験と知恵を国家の為にささげてもらうような部署であり、ここが最大の肝であるように思う。

これは、私流の視点でいうなら、人間の右脳的なモノと左脳的なモノを政治体制の中に組み入れるようなものにも感じる。
最初の国民の代表は、B型的な感性の代表であり、二番目の産業代表は、AB型的な理性の代表であり、三番目の官僚の代表は、A型的な知性代表である。
もちろん全てにO型的な悟性の要素が必要であり、この奥には、正しい「世界」認識が必要となる。「真理」を得ているかどうかで、それぞれの判断は違ってくる以上、この「悟り」の奥に在るモノが問われる必要が有るということだ。
今は、その宗教や哲学の問題を議論されることもなく、宗教などは政治に持ち込むべきではないという論調まで有る。
これは、唯物論、無神論の世界に押し込めて、神とは反対のモノの活動を助長しかねない。要するに悪魔が働き易くしているだけだ。
今、アメリカやヨーロッパ、日本も当然ながら悪魔がその力を忍び込ませやすくなっている。先進諸国であるように見えながら、単に左脳的な力ばかりが働き過ぎている社会の落ち込んでいる闇である。

大川総裁の言われていた、新たな政治体制で右脳的なしかも「悟性」に深く穿ちいったものにしていく必要性が有るだろう。
正しい世界観を備えているかどうかが問われる世界が不可欠だ。



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