陶玄郷

フラクタルの森で薪だけを使い備前焼を焼きながら迷走、瞑想している玄明のホームページ

FrontPage/2023-06-07

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発信機としての自己

自分自身が受信機であるが、同時に発信機でもあるのだろう
巷に飛び交っている霊波を拾うこともできるが
自分自身が霊波をいろんな形で発信して周りに影響を与えている


その霊波が、意識しようがするまいが、言葉や表情や行動によって発信されているのだろう
私は、陶芸作品としていろんな器を作っている
当然、その作品には作者の思いが乗っているだろう
意識して念を込めてはいないけれど、日ごろの思いの波動に染まっているだろうとは思っている

ここで、このような文章を書いているということは、書いている内容もそうだけれど
ここで訴えていることを広げたいとも思って、具体的に発信もしている
もちろん、勘違いや間違いも有るかもしれないけれど
大筋、正しいことだと信じて書いている

ただ、文才の無さも有り、この場は書きながら思考させてもらう場だと考えている
思ったことを文章として具体的に表現しようとすると、その中にインスピレーションが下りてくるようだ
いつも新たな気づきが有り考えが深まるようなことが多々ある
潜在意識のどこまでつながって情報を共有しているのか判らないけれど、とても面白い
時間をおいてその文章を見直していると消すべきだったり、書き足したくなることも多い

時代の波というモノもある
その中に投じた小さな小石の波紋であり、すぐに別の波にかき消される
しかし、色んな似たような波が重なると増幅されることも有る
今は、この波を打ち消すような波が多いけれど、なんらかの状況の変化で増幅するようなタイミングも有るだろう



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