陶玄郷

フラクタルの森で薪だけを使い備前焼を焼きながら迷走、瞑想している玄明のホームページ

FrontPage/2023-04-30

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両目(複眼)で見る

この両目で見る事の大切さは三点測量につながる
実際に両目で見ると見ている風景は立体的に見える
その原因は、左右それぞれの映像で見えていない部分を補い合ってのことだ


それぞれに、見えているものは一つではあるが
分解すれば、三つの映像が有るということ
言い換えるならば、左脳と右脳と前頭葉との三つの映像だ
この三つのとらえ方は、すべてに通じているようだ
その人体の構造と類似するのが次の図

画像の説明

またこれは、強引な翻訳のように見えるが次の論理性の図の
行いが有り、思いが有り、世界が有るのと似ている

社会

今朝早く作業をしながらぼんやり考えているとき、ふと気が付いたのが
この世界が有り、思いと行いですべてがあることと
三方帰依という言葉が関連しているようだということ
仏、法、僧に帰依するという言葉で、仏教で学ぶことの覚悟を問われている言葉だ
悟りを開かれた仏陀に帰依し、その教えという法に帰依し、それを学び広めようとする教団に帰依することを誓うという意味
これもフラクタルで同じだということ

翻訳は大きく違うように見えて同じなのだが、この三方帰依も同じ構造の中に有る
結局、この三点すべてが大事であるということ
どうやら、すべてに自と他と全体の三つの視点が有るようだ
それなのに、私たちは一点とか二点だけ見る傾向が強い

多いのが、図の言葉でいうなら「自己」と「行い」
要するに自己中と結果主義
見えにくい「他者」と「思い」を無視していきつく先だ
仏の視点を忘れ行きつく先だ

逆に、私のように信仰の重要性を理解して生きようとしている者でも
仏と教えには帰依しやすいが、僧団に帰依しにくい面が出てくるようだ
結局は、この三点すべてをしっかりと見て生きることが難しいということ

もっと具体的に言うとすれば、仏と教えは信じても、具体的に社会の中で教えを広げる活動に不足が有るということ
現実の中で「結果」を出すことが苦手な事

世界は二分されていると言われるけれど
基本、信仰心が有る側と無い側に分かれているが
そう単純ではないということ
信仰心が有って、見えない世界を見ていても現実世界では違いが有る

結局、この最初の図のような三点測量、三角測量が重要だということ
どこかが不十分になり易いということ
三角形が強いと言われるけれど、構造としてだけでなく
考え方の中にも必要な構造のようだ

自らの心の中に三角形ができているかどうかということのようだ



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