陶玄郷

フラクタルの森で薪だけを使い備前焼を焼きながら迷走、瞑想している玄明のホームページ

FrontPage/2023-04-28

Top / FrontPage / 2023-04-28

夏までに本を出す

色んなことをここでも書いてきたが
まとめて、私なりの哲学として本を出そうとしている
まとめていて思ったことだが、国語力の無さを思い知らされる


言葉ばかり多くて、相当数削除しなければなかったけれど
もう一冊分の量も有りそうだ
ただ、まとめるのは難しい

有難かったことは
文章にしてまとめようと努力したことで、考えが進んだことだ
解かっていることと解かっていないことがあぶり出される

結局何が言いたいのか、整理することもできた
もちろんきちんと整理できたわけではない

言えることは、私が発見したと思ったようなことでも
全て大川隆法総裁の教えが起源に有る

整理すると、愛の教えと反省の教えだ
私が混入させたことは、すべてを陰と陽に分けたり
それを右脳と左脳に関連させたりして
両目(複眼)で見ることの大切さを訴えている

今回発見したことは、両目は右左脳につながり前頭葉につながっているということ
立体的に見るためには二つの視点が無ければならないけれど
もう一つ、正確に見るためには第三の視点が必要だということ
要するに神仏とか、創造主の視点だ
究極の客観視ができるかどうかが問われている

この神の視点での価値観を見ることができなければ、善悪の判断が狂ってくる
美醜の判断も狂ってくる
当然ながら、神の視点で見れないということは、真偽の判定が狂っているかもしれない
それが影響して善も美も狂ってくるかもしれないということだろう

狂った結果、世界はおかしくなる
そのおかしくなった世界を確認しようとしている自分は
いったい何だろうと思ってしまう
なんとか理想的な社会を希望するけれど
自分の判断の正しさを確認しようとしているだけなのかもしれない

しかし、どちらにせよ
理想的な社会の出現を願っているには違いが無い
ただ、考えれば考えるほど、この社会は面白いとも言える
なぜ、なぜという問いが無限に湧いてくる

見えてくる課題は、愛に関する事だ
愛にも良い子、悪い子、普通の子がある
より素晴らしい愛を創造主は、私たちに求めている
より純粋化された愛を求められている
より素晴らしく、より高度な愛を求められているように思う



コメント


認証コード(1717)

powered by Quick Homepage Maker 5.1
based on PukiWiki 1.4.7 License is GPL. QHM

最新の更新 RSS  Valid XHTML 1.0 Transitional

備前焼