陶玄郷

フラクタルの森で薪だけを使い備前焼を焼きながら迷走、瞑想している玄明のホームページ

FrontPage/2023-04-22

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宗教=カルト

どうやら世界の認識は、このようだ
カルト宗教という言葉も有るが
どうやら特別なことではないようだ
宗教は、すべてカルトであり
距離を置いて見るべきもののように思われているようだ


このカルトとは、何だろうか
どうやら善悪の基準で見て、悪しきものに分類されて使われるようだ
もちろん、どのようなモノにも善悪は有る
良い子、悪い子、普通の子がある
宗教と分類されると悪いイメージが付きまとうようだ
悪い宗教が多かったせいで、多くの人は懲りているのかもしれない

歴史を見ても、政治経済の中にも多数のカルトが存在する
歴史も勉強すればするほど、同じパターンでカルトが横行しているように見える
もちろん、邪教の中では多くの刷り込みによってあらぬ方向に引っ張られるが
政治経済においても同じことが言えるだろう

しかし、しっかり見なければならないのが
正しい宗教であり、正しい政治であり、正しい経済だ
正しい道を見極めることができなければ悲劇だ
この正邪を見極めることが出来なければ、確かにカルトに踊らされてしまう

この正邪を見極める手段、方法が確立されていないのが問題だろう
それぞれの主観で正邪を分けて判断しているけれど
それがあやふやで間違いを重ねているから、変な世界ができて、不幸が消えず、更に危ういことが起きそうなのだろう。

この正邪、正否を見極めるのは、やはり、自我を離れ無我の境地になる必要が有るようだ
全て、主体に自分を入れ、得られる成果ばかりを見ている
主体を、神仏において見るべきだろう

ただ、宗教は、目に見えないものを扱う
その為にダマシを入れやすく、悪い宗教が生まれやすいのも事実だ
しかし、かといってすべて宗教を悪しきもののように見る風潮は、それこそ、悪魔という存在が居るとすれば好都合だろう

なぜかと言えば、見えない世界には神様が存在するだろうし、創造主なる存在が在るはずだから
ゆえに、一刻も早く、宗教の正邪を見極める方法論の確立が必要なのだと思う

ただ、宗教を捨て、神仏を捨て去り、自分という存在を主たる存在として、神の代わりに自分が判断し、反省することが出来なければ、だれが決めるのだろう

信仰心なき裁判官か、それとも、信仰心なき指導者にゆだねるのか
正しさを求めるのに長い間寄り道をしてしまったのかもしれない



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