陶玄郷

フラクタルの森で薪だけを使い備前焼を焼きながら迷走、瞑想している玄明のホームページ

FrontPage/2023-04-21

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宗教

時々、ネット上での議論とか聞いていて思う事
信頼できる評論家の意見を聞いていても思う事
「宗教」という言葉の意味がそれぞれに違う


宗教とは何かというと、崇高なる存在を信じる事でも有るだろう
神仏の教えを信じることで、安らぎを得たいとする心の働きのことでも有るだろう
しかし、その中身は人の数ほど有るという
であるならば、私流な解釈も許されるだろう

フラクタルの森で説明するなら、宗教にも陰陽が有る
陽とは、ご利益を得られること、安心安寧を得られること
要するに結果で良きものを得られる必要が有る
もう一つの陰は、その結果を得るために何が必要かということ
その教えが何であるのかということ

その教えを信じることで、何らかの良きことが自分に来なければ
確かに無意味だ
人は確かに損得で動くし、好き嫌いでも動く
損得は分かりやすいけれど、好き嫌いは、その経験によって生み出されるものだろう
好き嫌いの由来も厳密に分かるものではない
過去だけでなく前世の経験とかも関係するだろう
様々な原因によって好き嫌いの感情は作られてきたはずだ
要するに、好き嫌いは、悟性とか感性の中に有るようだ
損得は、知性とか理性の中で判断されている

結局は、この二つの面から見ない限り宗教であっても正しく見ることはできないけれど
基本は、結局、御利益があるかどうかに関わってくる
ということは、学校にしても塾にしても、更に交友関係にしても
好き嫌いで選択することがあっても、何らかの結果につながらなければ選択することは無い

学校選びと宗教選びが別ものとは言えない
学校や塾も数が多い、宗教もそうだ
そう考えると、皆が勘違いしていることを自覚する必要が有る

学校も行かず、塾へも行かず、家庭で独自の学びをする方法も有る
そんな選択も有るように、宗教に関わらない選択も当然のごとく有る
「無宗教」ということ
宗教にも他に「一神教」のイスラム教やユダヤ教キリスト教が有る
「多神教」の仏教やヒンズー教などが有る

それぞれの教えには内容が有るはずだ、その中身を知らずして
本当は、宗教の議論は出来ないはずなのに
無宗教の教えはどんなことであり、その教えに従うとどのようなご利益があるのか
そのようなことは全く考えていなさそうだ
結局、宗教とは何かを信じ、頼り、何らかの御利益を得ようとしている人たちだと信じているだけのようだ
宗教の意味を深く考えないために、宗教者を斜めに見てしまう

本来、最悪の宗教、邪教といえば、「無宗教」だということになる

死後の世界



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