陶玄郷

フラクタルの森で薪だけを使い備前焼を焼きながら迷走、瞑想している玄明のホームページ

FrontPage/2023-04-16

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フラクタル玄明陰陽学

備前焼作家の玄明が何を言いたくて、このようなところでフラクタル陰陽学として文章を書いているのか、一言で言うなら「複眼(両目)で見ませんか」ということになるでしょう。


見えにくい陰なるモノを無視する傾向が私たちには有ります。
見えにくいモノは、時間と空間や人間そのものの中にも有り、大切なモノは目に見えないという言葉も有るように大切なモノを見過ごしていて良い結果を求めることなどできません。
他者を見ようとせずに自己中になり、自分が得られる結果ばかりを求め、そのために必要な原因を作る努力を無視して結果主義になってしまいがちです。
全ては原因と結果で成り立ち、全ては関連しあいながら循環して、それぞれが無関係ではないにも関わらず、出てきた結果に一喜一憂して不平不満を言っているのが私たちではないでしょうか。

それぞれが自己中で結果ばかりで動かされるなら、まるで動物のようです。人間である以上、複眼(両目)で物事を見ない限り立体的に見えません。立体的に見えないと距離も測れず歩いていてもコケてしまいます。

今、世界はコケてばかりいます。片目で歩いているからです。
個人も企業も政府もフラクタルであり同じであるのに、個人や企業の会計と国家の会計とは違うかのように勘違いをして政府に頼ってばかりです。

個人の周りに不幸が訪れるのも、企業が倒産するのも、国が滅んでいくのもフラクタルです。政府は、行政サービスで税金を集め、その上に自分でお金を作ることもできます。個人や企業よりも信用を背景にしてとても大きな力を持っているという違いだけなのに、その持っている大きな力を無駄に浪費しています。浪費というより、それぞれが立場を利用して奪っている。

政治家も公務員もその国民も、多くが自己中で結果主義が強すぎるために、他人のせいや環境のせいにしつつ、自分が得られるモノは手放しません。
結局は、為政者も国民も全てが協力して日本の今を造ってきました。
ここで踏みとどまらない限り、このまま進むなら皆で谷底に落ちることになるでしょう。

どうやら善悪の判断能力が落ちているようです。
善悪に関わる思考は、5W2Hの図の「思い」の所であり「なぜ」の所ですが、「だれが」の所に「自分」しか入れていないために、自分にとっての善悪しか考えていません。
もちろんそれが基本ですが、同時に「他者」を入れて善悪を考えるべきなのです。複眼で見るということ、そこで善悪が自と他では逆転したりもするし、とても分かりにくいので客観視が必要になります。
ここで、本当は信仰心が必要であり、全人類を我が子のように見ている神なる立場から考える必要が有ります。
神とか創造主とか考えられなければ、全人類を我が子や孫のように見ているジジババの視点を借りて考えることです。

このように多くの人が複眼で見て善悪を考えることが出来れば、ここまで世界がおかしくなることは無いと信じます。
このようなフラクタル的な陰陽学が世界に広がってくれればと切に願う。



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