陶玄郷

フラクタルの森で薪だけを使い備前焼を焼きながら迷走、瞑想している玄明のホームページ

FrontPage/2023-04-10

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由々しき人々

この世の人々には様々な人間がいる
人間にも良い子悪い子普通の子が居る
個人の中にも潜んでいる
良い玄明さんも悪い玄明さんも普通の玄明さんもいる
どの部分を前面に出してしまうのか
出てしまっているのか
悪い部分を抑え修正を加えようとしているのか

最悪として出てくるのは
「良識ある知識人を演じている人々」だろう


昔から、この「良識ある知識人」を表現しようとする人に対して嫌悪感を持っていた
もちろん、自分自身の中にも有ることを認識できなかった
この「良識ある知識人を演じている人々」とは何であるか
考えてみると「自己中で結果至上主義者」と重なる
これはどういうことかというと、「行い」の見えやすい部分ばかりを気にしている人
「思い」の部分をおろそかにして表面に浮かび上がってくるものを重視する
「思い」には、善悪の判断が必要なのだけれど
美醜を見すぎるために仮面をかぶり善悪を見られなくなる
その理由は、「世界」の中で自分を中心にし過ぎて考えるせいだろう
「だれが」の中には、本当は多くの人が居る
多様な人達、多様な自分もいる
そこがあまりにも自己中心で見すぎているためにゆがみが生じる
社会

この傾向の強い人には、左脳的な頭の良い人が多いようで
右脳的な頭の不足を補おうとするために起きるようだ
そこで不可欠な道徳、要するに善悪の判断能力の無さを補おうとして
良識ある自分であると表現しようとするために
本質を見ようとせずに一般的な正しさを前面に出すことで間違ってくる
正しさとはまさに難しく、人時所によっても違いが出てくる

少し乱暴な言い方ではあるが、諸悪の根源はここに有り
その原因は「世界」の見方が間違っているからだ
多くは「だれが」の自分を中心にして見すぎ
「いつ、どこで」も狭い時間と空間で考えすぎるせいだ
要するに、人時所という世界を狭く短く小さい空間で考えているせいなのだ

逆から言えば、狭い世界で考えるから、どうしても成果にこだわる傾向が強くなってしまうということ
ある意味、幼児性が抜けていない
要するに進化途中の魂群であるということ
どれだけ頭脳優秀でどれだけ恵まれた生まれ育ちの中に有っても
この循環、愛と知と反省と発展という思考と正しき心の探求(真理探究)ということが出来ていないと、どれだけ愚かなことにつながるかということを知るべきだろう

この7つの階梯を正しいもので埋めていく修業をしなければ
人生も経済も政治も何も有ったものではない
世界が狂ってきている背景には、いろんな職場で、色んな課題で
その悪循環が繰り返され積み重ねられてきたせいなのだろう



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