陶玄郷

フラクタルの森で薪だけを使い備前焼を焼きながら迷走、瞑想している玄明のホームページ

FrontPage/2023-03-12

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リベラル傾向の真実を考える

リベラル、左翼傾向の人たちの傾向性とは何だろうか
考えると不思議で仕方がないけれど
傾向性は確かにある


どうやら、良識ある個人でありたいという意識が働くようだ
対立する他者の立場を考慮しようとしている
自己に対しては反省しようとする姿勢も表現する

慰安婦問題にしろ徴用工問題にしても
相手側の言い近寄ろうとする姿勢がある
ただ不思議なことは、慰安婦問題においては吉田誠二だったと思うがすでに出まかせだったという事実があり
朝日新聞社も認めざるを得なかったことがある
徴用工問題も細かく書こうとは思わないけれど
どうやら、「事実」の見方に問題が有るようだ

画像の説明
この事実の見方にも複数の見方が有る
これらの見方を蛇行させてしまうために起きていることのようだ
たとえ一件であっても事実として有ったこと
そのことが、普遍的に常識的に行われたかどうかということ
要するに、数、量の問題である(空間的なモノ)

たとえば、ある地域で犯罪が起きたとして
②その犯罪が、その地域で当たり前に起きている犯罪であり、
何とかしなければいけない問題である場合と
①その犯罪は、その犯人固有の問題であり厳しく処罰すれば良いだけの場合が有る
もちろん、この二つには連続性は有る
①での対応が不十分なら②にまで広がる恐れもある

ただ、ここにも質の問題も絡む(時間的なモノ)
その犯罪が、それほど重大ではないと思えるようなモノ
判断に迷うような軽微な問題の場合だ
そして、人時所の違いで微妙に変わってくるような問題だ
要するに(人間的なモノ)も関わってくる
事実を、その情報をどのように処理するかという問題が有る

そして、もう一つ
人間の心に潜むモノが有る
良い子悪い子普通の子である
これも、自分の中に見ているものと
もう一つ他人の中に見ているものだ
結局、自分は良い子でありたいと願う気持ちが働くけれど
同時に、相手の中、他者の中に悪い子を見てしまいがちなところで揺れる
他者と比べて自己卑下的な見方をすることで起きる場合も有る

どういうことかと考えると
自己中心であるけれど、自分の良い子の面で考えようとして
過去の日本人は非道なこともたくさんやっていただろうと
自分の中の悪い子を基準にして判断してしまう
要するに自己の中の悪い子を見るように他者を見てしまい
それを阻止しようとして自虐的な歴史認識を持ってしまうように思える
同時に、目先で結果を出したくて、良くも悪くも結果を優先する
その場が収まるような判断をしてしまう

この構図は、共産主義、DS(ディープステート)やグローバリストやネオコンにも通じるのではないだろうか

本当は、まともな判断をするとすれば
自分の中にも他者の中にも、努力して良い子の面を見て考え対処すべきだろう
もちろん、心の隅に潜んでいる自己中で結果主義の悪い子もいることを考慮しつつも、お互いの良い子の面を信じあうべきだろう
そのためには、悪い子が働いての犯罪に対して厳しく対応する必要はあるけれど、一部の犯罪を普遍的なモノと考えて色んな規制を造ってしまうといろんな問題も生まれてくる
毅然とした態度が不可欠であり、善悪の判断も明確にすべきなのだが
そのためには究極の客観視が不可欠だ

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