陶玄郷

フラクタルの森で薪だけを使い備前焼を焼きながら迷走、瞑想している玄明のホームページ

FrontPage/2022-12-10

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ごく大雑把に価値を考える

個人でも企業でも国家でも、その評価は主に経済力で決まっている。
経済力が様々なところで力を発揮する。
もちろん、それ以外の要素もあるが、経済が一番大きなファクターだ。


軍事力にしても、人々の幸福度にしろ、お金の力は侮ることはできない。

では、お金とは何だろう。
基本は、次の図で表すことが出来る。

基本経済の

フラクタルの森的に考えるなら、右脳的なものが左脳的なものに変換されたのが「お金」だ。
その変換に必要なことは、思い込みでもあるが信用でもある。

為替相場で国対国のお金の価値は違うし、金融の世界に於いては難しいこともある。
細かなことはわからないけれど、基本は、シンプルに見ることだと思う。

お金、通貨には国によってもいろいろ違う。
仮想通貨とかデジタル通貨とかあるようだが、基本、どのようなお金でも必ず「信用」というものが背景で支えている。
うがった見方をすれば、それが値打ちのあるものだと思い込まされている。本当の信用は、神仏からくることを信じるべきだ。神仏からの信用を担保できなければ、必ず、その価値は、必ず消えていく。

例えば、私が作る備前焼でも、コイン状にして扱いやすく偽造が出来ないようなものが作れて、みんなをだますことが出来れば円に代わるものが出来ないとは限らない。もし、そうなったら、私は大金持ちだ。
なんでもやりたい放題だ。
おそらく、世界の通貨発行権を持っているところは、似たような思いに振り回されているのだろう。
ただ、どのような通貨でも信用を失ってその価値が消えて行く心配は持っているだろう。

アメリカの歴代大統領で、暗殺、暗殺未遂にあった人たちは、この通貨発行権を政府に取り戻そうとした人たちだという。FRBというのは、一般企業で背後には株主がいて、その通貨発行権の恩恵を受けているという。
日本は、日銀の半分以上は国が支配しているために、少し違いがあるようだが、昔一時期銀行に勤めたことが有っても、大きなお金と縁が無いのでこの問題を明確にイメージすることは出来ない。

どちらにせよ、信用にも良い子悪い子普通の子があり、その信用を背景にしたお金の威力はすさまじいために、人の心は揺れ動くのだろう。
そのお札が生まれている背景に、何らかの生産物が有り、その価値が変化しているだけなのに、表面に刻み込まれている数字に翻弄され心を狂わす。
案外、世界の「お金」とはこんなものではないだろうか。

画像の説明

社会は、生産された価値ある商品やサービスを、お金という道具を通して流通させやすくしている。
そして、自分が造り出した価値あるものを、他者が造った同等のものと交換するために、この道具が活用されている。
この貨幣経済とはとても便利だ。
物々交換の途中にお金という道具を入れることで、飛躍的に流通速度が効率よく速くなる。

今まで、そのお金という道具に様々なものが使われてきたようだ。
金などの貴金属を道具にしたり、その他のものと混ぜ小判のような通貨を造ったりもしていた。
金の含有量などでその信用を担保したのだろう。
その後、紙で安く作られた兌換紙幣も出来てきた。
お札を持っていけば、同等の金塊に換えてくれるという信用で成り立っていた時代もある。
しかし、背景の信用を金塊でなく、それ以外の信用に置き換えるような事も出てきた。例えば、その国家の信用だ。
これは、よっぽどのことが無い限り信用を失うことは無い。
おそらく、強引になされたのだろうが、今では当たり前のこととして世界中の人々は受け入れている。
もちろん、その国家の信用を担保しているものには様々有るだろうが、そのおかげで世界の経済は飛躍的に拡大したようだ。
兌換紙幣で金の価値と交換可能な量しかお札を刷れないとすれば、印刷するにしてもお金の量に限度がある。
信用さえ担保できれば、金塊が無くても無限にお札を印刷することが出来るようになった。もちろん、仮想通貨やデジタル通貨などにもその恩恵は及ぶ。そのおかげで、先物というような経済も成り立ち、商品やサービスが生産される前からお金が動き、牽引力ともなったようだ。

ただ、欠点もある。
この信用ということが曲者で、あいまいであり、ダマシが入ることが有るからだ。
どのような道具でもそうだが、その道具が社会の中であふれかえるなら、その道具は不必要になり、売れなくなる。その価値が下がってくる。
お金という道具も同じだろう。
それでも、その道具が造られ、印刷し続けられたら、その価値は二束三文になってしまう。要するに強度の悪いインフレになり、お金という道具の価値が消えて行くことになる。

ということは、どういうことかと考えるなら、経済の基本中の基本は、右脳的な要素にあるということだ。要するに生産されることの価値であり、
「仕事」と「生産」という、「何を」「何故」のところだ。
「どのようにして」「どうなった」の所ではない。
現実にお金が動き、様々な恩恵を受けるためには、その価値の発生原因であるところのサプライサイドを重要視する必要が有る。その価値を考えることに有る。

ラッファー博士の「サプライサイド経済学」の重要さが、ここでも証明される。ハウツーの金融の所ではない。
やはり、ここでも、「なぜ」のところが重要なのだ。

「なぜ」とは、動機や思いが具体化された部分。
「なぜ」とは、与える愛を含んだもの。
「なぜ」とは、本物の価値を含んだもの。
「なぜ」とは、この宇宙を生み出している原因から来るもの。

何事にも、この「なぜ」を何度も繰り返す必要が有ると思う。

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