陶玄郷

フラクタルの森で薪だけを使い備前焼を焼きながら迷走、瞑想している玄明のホームページ

FrontPage/2022-11-24

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神が人類を作った理由は?

単純です。
私は、粘土で作品を作っています。
その器にとって、私は創造主です。

なぜ、作るのか?
理由は二つあります。
作りたいから(右脳的理由)。
求められているから(左脳的理由)。


粘土の器でも何者かの意志の力が働くことなく完成することは無いでしょう。
火と土があれば偶然に器になるとは、だれも思わないでしょう。
生き物、最高傑作ともいえる人間の体、その機能、それが偶然にできるとは、あり得ないことです。
それを進化論は、何者かの意志の力を無視しており論理的に破綻している。
身の周りの高度に成熟した科学技術を含んだ製品にしても、人々の思いと努力の結果が蓄積されているだけです。

目に見えないからと言って思いを投影している創造主、神を見ようとせず、自らを主たる神のように思いこみ自己中で生きようとするする人たちが繁茂している。
愚かです。

神を見ることができなければ信じることです。
神の思い、神の願いが私たちの中に込められているはずです。
それを信じることです。

私たちは、神の子、仏の子と昔から言われています。
創造主の子であるなら似ているはずです。
私たちの中に神と同じものが宿っている。

最近、孫が増え、子や孫を見ながら考えると、何となく神の願われていることが判ります。
もちろん、自分の中にも良いジジや悪いジジがいますが、最高のジジをイメージして考えると、神が私たちにの願われていることが何となく見えてくる。

創造物である粘土で作った器も、人の役に立って喜ばれてほしいと願っています。
誰であれ、基本は、同じのはずです。

お役立ちの結果として賞賛を得、対価(お金)を得ることにもなります。この世の中は、自己中で結果至上主義にもなり易く道を踏み外しやすいけれど、そのために心を磨き、愛の思いを磨くために最高の修行場なのでしょう。
神から与えられた魂の修行道場として、環境も肉体も与えられている。
その限られた世界の中で神と同じ創造の力、フォースを使って生きている。
何を創造するも自由だけど、その自由には責任が伴う。

本当の意味での信仰心が無ければ、神を侮ることになる。
(凡庸な)自分を見るように神を見ると、ご利益信仰になり、結果主義の何かをしさえすればご利益があるかの如く勘違いして、高額なツボを買ったり、高額なお布施をすれば救われるようにお思い込む。

自分の中の最高に素晴らしい神の子の側面から見ようと努力すればいいだけだと思う。
そうすれば、本物の宗教に出会うことだと信じます。

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