陶玄郷

フラクタルの森で薪だけを使い備前焼を焼きながら迷走、瞑想している玄明のホームページ

FrontPage/2022-08-17

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死後の世界は無いと、何故、思うのか?

死ねば終わりだと思っている人が多い
質問に答える人の多くがそのように答える
もちろん、答えようとしない人もいる

現実的に半数以上の人が、無いと思っている
無いと思いたいのかもしれないが
有って欲しいと答える人も居る
様々な判断がある


もちろん、証明不可能ではあるが
死後地獄に落ちる人が半数以上だという教えもある
あの世に旅立てず、この地上で徘徊するしかない諸霊も居るようだ

どちらにしても、証明不可能だ

ただ、深く考えるなら
現実に「自分」という存在が在ることは真実で
その自分が考えている

その自分は、何故、今、ここに存在し生きているのか
判る事は、ご先祖が在り、両親が在り、肉体をいただいている
その中で考えている自分が居る
その自分という存在の中で考える自分という心が在る
この魂と心の問題も、全て脳と神経細胞で起きると考える人も居る
様々な考え方が確かにある

しかし、よく考えるなら多くの人は思考を停止させている
心の問題は、まさに目に見えない為に難しい
だが、この肉体は目に見えるし、傷つけば痛みも苦しみも感じる

この肉体が、ただ、ご先祖様から受け継いで有るとだけ考えるなら
それこそ、思考を停止させ、深く考える事が出来ない状態だと言える

世界には、人間だけでなく様々な生き物が食物連鎖の中で生きている
微生物から人間までを考えてみても
水の中で生きるもの、空を飛ぶもの、様々居る
それらの生き物がどうやって生まれて来たのか
考えるなら、素直になって考えるなら
不思議を感じるしかない

その不思議を感じても
多くの人、特に知識人と言われる人ほど思考を停止させる傾向があるようだ
無知を認めたくないのだろう
水中で生きるものも、空を飛ぶ生き物も、当たり前に目の前に居る
何故、どうやって、空を飛ぶ生き物が生れたのか考える事をしないのだろうか
思考を停止させず、何故?なぜ?を繰り返し、原因を探すならば見えてくるものが有る

結果には、必ず原因があるという法則を理解していないのか?

水平思考的に、私が造っている粘土での作品で考えると
間違いなく、私という自分が造ろうと思い、行動に移さない限り完成することは無い
この簡単な物であっても、設計者が居て製作者が居る

もっと、より高度な、この肉体で考えても
空を飛ぶ昆虫や鳥たちを見て考えると、あまりにも不思議なのだ
生まれて育ち命をつなげていることが、偶然に起こっているとは、到底考えられない
その原因を考え始めると、そこには、原因が浮かび上がって来るだろう
陶磁器でもわかるように、原因と結果を考えるなら、単純な理屈なのだ

原初には、設計図としてのDNA(遺伝子)が在る
設計図が有るということは、設計者が居る
その意思を投影しようとする存在が必要だ
目は見えない、意思の力が存在する

目には見えないが、陶磁器でも創造主が存在するように
全ての生命の遺伝子、DNAには創造主が存在するだろう
その主体なる存在を、自分以外の所に見ることは出来ないのだろうか

この心という存在がどこに存在してるのか
考えるなら、霊的世界としか言いようがないのではないだろうか
この霊的世界の事を、昔から、実相世界とか、あの世、彼岸とか言われている

この世界の中で
おそらく、全宇宙の創造主たる存在と
私たち、一般の霊たちと共に存在し
共存しながら、この世界を創りだしているのかもしれない

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