陶玄郷

フラクタルの森で薪だけを使い備前焼を焼きながら迷走、瞑想している玄明のホームページ

FrontPage/2022-07-23

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政府、財務省の犯罪行為

主体が大きくなりすぎると、天からの光が射しにくくなる。
主体となる存在が大きくなりすぎるということは、自己を中心として考え過ぎることだ。
これが個人レベルから始まるが、政府レベルにまで広がっている。
基本経済の


そうすると次に何が起きるかというと、自分が、自分たちが得られる成果ばかりを見るようになる。結果ばかりを見つめるようになると、右脳的要素の部分、動機の部分が希薄になり始める。左脳的要素の結果ばかりを見ることで思いの部分が圧迫される。
そして、左脳的要素の眼に見えやすい、結果や方法論(代金≪売り上げ≫・所得)を中心に更に考え出す。
要するに、目に見えにくい陰の部分、思いが希薄になっている所に結果が入るようになる。
結果ばかりを心に満たしていると、その本来の意味が分からなくなってしまうのだ。

税金の事ので考えると
政府、財務省官僚たちにとって税収は、結果目標でもあるだろう。
これが結果主義になると、税金のそもそもの意味、何故の所を考えることなく、結果ばかりを追求していく。

結果ばかりを追求すると。めんどくさい理念とか道徳など邪魔になる面も有る。
企業が、利潤という結果目標ばかりを見て、本来やってはいけないような方法に手を染めるようになるのと同じだ。要するに詐欺的行為だ。
この詐欺的行為が行き過ぎると、今度は直接的な泥棒行為や強盗のような行為に向かって行くことになる。
そんな企業はすぐに、その犯罪行為は明らかになって自滅するが、政府レベルでそのようになると、その国家権力で強引にもみ消そうとする。
その利権に癒着しているメディアや企業もそれに協力して社会は堕落してゆく。
当然ながら、天は、神様は、創造主は、そのようなことを許しておかれるわけが無い。

政府、財務省や、その利権に絡んでいるような論客は、巧妙に詐欺的行為や泥棒のような行為、強盗のような行為を上手に隠蔽して、庶民だけでなく、自分自身の良心まで狂わせていく。

考えれば判ることだ。
消費税が、消費にブレーキをかけることぐらい優秀な人たちが理解できないわけが無い。
税収を上げるということに眼がくらんでいる。確かに新たな財源を造ったり、税率を挙げれば、左脳的に、算数的にその税収は確かに増える。
しかし、消費にブレーキをかけることが経済全体に重しをかけてGDPを下げ、結果として全体の税収を下げる事なる。
素人の私でもわかる事なのに・・・・・。

そして、その結果の証明はすでに成されているはずなのに、反省の本質が理解されていないようだ。
要するに動機、思いの部分、それに影響を及ぼす世界の見方、真理を理解しようとしない為に、反省と言っても、猿の反省と言われるが、単に方法論の所だけの反省となる。

根本的なところまで反省できなければ、解決することは不可能であり、更に蛇行を繰り返すことになる。

個人でも企業でも政府でも、自己を肥大化させ、目先の結果に振り回されるなら、その求めていた結果は次第に遠ざかることになる事を知るべきだろう。
結局、「思い」の部分、「なぜ」の所、動機ではあるが、そこに「与える愛」という理念がしっかり悟りと共に入っていなければ意味を失う。
どのような事象に関しても、ここに「与える愛」につながる要素が不可欠なのだ。

経済問題でも、基本は、ここに入る生産物、消費やサービスに何が含まれているかということ。
政府の仕事が造り出したモノに価値が無ければ、無い価値から対価は生まれたように見えてもすぐに消える。その結果は借金を積み重ねるだけだ。
これは、個人でも企業でも地方自治体でも一緒だ。

政府は、日銀を通したりして通貨の発行が出来るために、お金という価値をいくらでも造り出せるから錯覚をしているが、そこに本当の価値を含んでいなければ、そのお金は煙のように消えるのだ。「与える愛」を含み「智慧」無く「反省」無ければ、その循環に「発展」は無い。

結果として、1200兆円以上の借金を積み重ねてしまっている。
その借金をだれも取り立てに来ようとしていない現状に安住していると、やがて、そのしっぺ返しは別の角度からやってくる。
借金ができなくなってくるのだ。

一般的な事で考えれば、すぐに分かることだ。
個人でどれだけ信用が有り、莫大な資産を持っていても、その資産価値を超え、その人の仕事で生み出しているモノに価値が無いと分かれば、誰も相手にしてくれなくなる。
新たな借金など出来なくなる。

私は、土から作品を造り出して、その陶芸の対価で生計を立てている。
政府は、紙から紙幣を造り出し、その価値でまた様々な仕事をしてその対価で生計を立てている。

私の陶芸作品に価値があ有れば、借金して何かに投資することも出来るが、それには限度も有り、将来的に価値が無くなると思われたり、作品が造れなくなると思われたら無理だ。
政府の仕事に価値が無いと思われ、これ以上借金を積み重ねるのは無理だと思われたら、新たな借金はしにくくなる。

自国通貨建てでの借金がしにくくなり、ドルとか他の通貨でしか借金ができなくなれば、いくらでもお札を印刷できるわけはない。印刷すればするほどその価値は少なくなり、円の価値は下がる。
MMT論者は、このことを理解して緊縮財政を批判すべきなのだ。

「財政健全化」自体は正しい事である。
価値のある支出は、いろんな側面からプラスの効果が有る。
ただ、価値を産まない、無価値な仕事を借金してまでやっていることを反省すべきである。

三橋貴明氏たちの仕事も無価値なことをやっていることにもなる。
無価値どころか、使ってはいけない出金で社会を狂わせていく。
彼から、経済の基礎的な所は学ばせていただいたが、彼は、目に見えないところが見えていない。

お金を「物」としか見ていない人たちを批判するが、彼もお金を「数字」としか見ておらず同じ穴のムジナとなっている。
信用とか価値とか、しかもその評価基準を低レベルから見ていては本質を見れない。神仏の視点から、創造主の視点から、最高最善の全人類の親の視点から価値判断ができなければ無意味です。

三橋氏は、大きな政府を提唱するが、それは価値判断を横に置いて数字だけで言っているようだ。大きな政府は堕落し悪循環を生み非効率化して赤字を積み重ねる。
数字とか金額の多寡だけでなく、その仕事の善悪の価値判断ができなければ悪魔、悪霊に協力するしかなくなる。
現に、バラマキを言う政治家を応援している現状では、そのような者たちに支配されている可能性が有る。

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