FrontPage/2021-11-27
フラクタルの森の論理的考え方
物事の流れには法則があり、その課題(なにを)で求めている成果が出ないとするなら、
必ず図の中のどこかに不備が有る。
見て、思って、行って、結果が出るという流れの中で、その不備を探そうとする時、
往々にして、表面的な所しか見れず、
方法論や、環境や、他人のせいにしがちな面も有るでしょう。
世界(状況)を見間違えていないかが最大の問題点であり、間違えた世界観を持っていると、
その課題の見え方も違ってきて、そこから出てくる思いも違い、
そして、言動も違ってきて、当然、結果に反映します。
人間の持っている徳性として悟性・感性・知性・理性が有り、
その徳分とこの図とは深く関連して、論理的に循環しています。
また、この循環は、左脳と右脳の持っている特性とも関連し、
更に言うなら、釈尊の悟りの原点である四諦八正道とも関連し、
幸福の科学の愛・知・反省・発展の考え方とも連動している。
釈迦弟子が次々と悟りを深めて救済力を増していったように、
すべてにチェックを入れるべきですが、
現代社会では、どうしても知性(どのようにして)と理性(どうなった)というような、
目に見えやすい左脳的要素の部分で見がちになる。
しかし、「大切なものは、目に見えない」という言葉が有るように、
感性(なぜ)・悟性(なにを)という右脳的要素の見えにくい所がより重要です。
この右脳的なモノ、基礎に有るモノが希薄だと、後のモノに狂いが生じて、
どこかで無理をしないと結果を出すことが出来なくなります。
無理をすれば道理は引っ込み、良い循環を起こすことは不可能になってしまう。
「なぜ」の部分、ここに入るモノは、「愛」「与える愛」に関連するものです。
ここが希薄になり結果主義がまん延して起きることは、不都合な現実です