陶玄郷

フラクタルの森で薪だけを使い備前焼を焼きながら迷走、瞑想している玄明のホームページ

FrontPage/2021-11-25

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偶然という事

寒くなってきました
作品を磨き水洗いをしなければならないのに
どうしても体を動かし体があったまるような作業に向かってしまう
いま、日が射してきたので作業着に着替えて表に出るとしよう
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偶然という言葉がよく使われ
これは、因果関係が分からないという事だと思うが
ある意味、便利な言葉だ

しかし、この言葉に頼り過ぎていると無責任人間を大量生産してしまいかねない


あのダーウインの進化論が良い例だ
環境の変化で突然変異を起こし、その変異が環境に順応し適者生存して
自然淘汰され進化してきたとする

環境に適応するような変異を起こしたものだけが生き残る
その偶然の結果、それを繰り返した者だけが生存して命をつなげていった

そして、その変異を遺伝子に刻み伝えていったということ
そこには、目的性という要因は無く、運が良くなければ結果として進化は起こらなかったとする考え方です

結局、ダーウィンは生物の進化に「目的」はなく、それは偶然の「結果」にすぎないと考えていたようです

しかし、フラクタルの森での考え方には、偶然という言葉は無い
ただ、「なぜ」なのかが分からないと謙虚な姿勢を要求します

この図の「なぜ」の部分が、非常い大切なのですが
ダーウィンの考え方では、ここを無視しています

仕事

「なぜ」、この部分は、設計図であり、動機であり、思いであり、目的です
もっと踏み込んで言うならば、ここには「愛」が入ります

仕事で考えるなら、ここに入るべきものは
仕事で生み出される商品であったり、サービスですが
その中に、他者に良かれという愛の思いが無いモノは、価値を生みません

結果ばかりを求めた商品やサービスは、薄っぺらく
時には、ごまかしてでも結果を得ようとする方向に行ったりします
それでは、良い循環が生れずに進化は止まり、退化が起こります

生命も進化するばかりでなく、退化するという可能性もあります
人間の生命を維持し、種をつなげていく機能にしても
その良い進化が保持され、積み重ねられ、伝え続けられるためには
偶然という考え方で見るなら、相当に運が良くなければ無理です
丁半博打で常に勝ち続けなければならないようなものです
常に命がかかっている博打では、負ければそこで終わりです
こんな簡単な理屈を思考停止して見ないという知性は
一体どのようなものでしょうか

思考停止してカルト宗教の如くになっている

生命の起源には、それ以前は、宗教的な偏見で科学的な視点が阻害されていたようですが、
ダーウィンにしても非科学的な妄想に陥っています

科学的に見るとは、論理性と客観性と再現性、実証性が不可欠でしょう

ダーウィンの進化論では、最初の論理性から満たしていません

偶然は、無いのです
ただ、わからなかったという事実だけが有るのです

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