陶玄郷

フラクタルの森で薪だけを使い備前焼を焼きながら迷走、瞑想している玄明のホームページ

FrontPage/2021-11-16

Top / FrontPage / 2021-11-16

窯焚きを終えて

朝方、窯焚きを終えて昼に起き出して
色んなニュースを見ながら考えていた
そこに有る問題点を考えていた

正・反・合
これは、弁証法の中で言われる言葉のようだが
私は、弁証法の意味を理解できているわけではない
しかし、私の中では、自と他と全体という言葉に翻訳して常に活用している


幸福の科学に出会った当時のことを思い出す
法友に岡大の学生がいた
彼は、卒業してすぐに出家して職員になっている
とても勉強熱心で、アパートの部屋を訪ねた時にビックリしたのだが
部屋の中央に万年床が有り
その周囲を書籍がびっしりと埋め尽くしていて足を置く場所も無いほどだった

彼が発した言葉で記憶に強く残っているのが有る
「総裁先生は、常に、自と他と全体の視点で法を説かれている」
私には、初期の少ない書籍の中でそれを読み出す力はなかったけれど
とても納得することが出来て、常に頭の片隅にある
そして、その意味をビジュアル化するために造ったのが次の図だ

画像の説明

なぜ、今日、そのことを思い出したかというとNHKの問題点や
消費税のこと、10万円18歳以下の子供に配ること
色んな事を考えている時に
共通してフラクタル的に考える必要があることを再確認したためだ

誰でも、基本は、自分を中心にして正しさを求める
しかも、その時、その場所に置いてだ
しかし、自分の周りには、常に他者の存在が有る
そして、それらを取り巻く全体の環境が有る

どうやら、私が違和感を感じ、間違っていると思う背景には
常にこのことが有るようだ

要するに、自分の都合や自分の視点だけで考えて
人に対する、良かれという思いも
自分と同類に見た他者であり、どうしても、自分という枠から離れることが出来ないでいる

その為に、他者を悪く言う時であっても
自分を観るように他者を見て自分と同じ価値観だろうと思って判断している節がある

「周りの人を全て悪人と思っている人ほどの悪人は居ない」
という言葉が有るが、人間をどのような存在と観ているかで
自分自身の判断と行動も影響されているようだ

自分とは違う他者、自分とは価値観の違う他者
自分とは反対意見の他者
自分とは利害で対立する他者
せめて、この二つの眼で考える必要があり
その二つの眼が働けば、視覚的にも心情的にも立体的に見えてくる

そして、一番重要なのが、全体の視点だ
フラクタル的に言えば、額に有ると言われるチャクラで考える事になるのだろうが
全人類にも、過去にも未來にも、関心が有り
全ての存在の可能性を見て考えられている
神仏のような視点

この視点を認めるためには
神仏の存在を意識することが不可欠だ

無神論者には、それは無理なこと
共産主義、社会主義の人たちは、無神論であり、唯物論だろう

リベラル、左翼思想の人たちが
たとえ、神社仏閣で手をあわせて祈ったとしても
そこに存在する神は
おそらく、自分自身、自分たちの利得
おそらく、それを超えることは難しいだろう

そのような人が考え、良かれと思ったとしても
全体から見た視点が乏しければ
間違った判断のもとに、自分たちが思った正しさを実行してしまう

そこに狂いが生じるようだ

powered by Quick Homepage Maker 5.1
based on PukiWiki 1.4.7 License is GPL. QHM

最新の更新 RSS  Valid XHTML 1.0 Transitional

備前焼