陶玄郷

フラクタルの森で薪だけを使い備前焼を焼きながら迷走、瞑想している玄明のホームページ

FrontPage/2021-11-13

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神の栄光

お金とは、不思議なものだ
その力は、あらゆる価値を数字で表現できる
ただ、数字で表現しきれない価値も有ることを知らなくてはならない


数字で表現しやすいもの、数字で理解しやすいものは
左脳的な知性、理性で感じることが出来るが
数字で表しにくいものは、右脳的な悟性、感性で感じているのだろう

その表現しにくい、眼には見えないものを表す方法は、感動といったものだろうが、その感動を伴った数字で表しにくい価値は、ある意味、数字以上の価値を含んでいる場合がある

この目には見えにくい価値を見るようにしなければ
アダム・スミスの神の見えざる手というような経済理論が理解できないのかもしれない

眼に見えやすい価値を表現し、交換手段としてお金が使われるわけだが、この、眼に見えにくい価値を無視している社会の中では、そこで使われているお金の価値も大きくはならない可能性があるのではないだろうか

お金は、いろんな変遷を繰り返しているが
この便利な道具を使いこなすことは難しそうだ

政府は、通貨の発行権があり
ある意味、お金をいくらでも造り出せる
それゆえに、お金の使われ方によって善悪のふり幅も大きくなる

日銀という中央銀行に高額紙幣の発行を許し
政府が簡単にお金を印刷できないようになっている
硬貨は政府の造幣局が造るので、一万円硬貨を造れば同じではあるが、それをしないのは通貨の信用を保つためだろう

ワンクッションおかなければ、増刷に歯止めがかからなくて
政府の都合でお金をいっぱい使われると、その通貨の信用は簡単に崩れてしまう

もちろん、そのお金の使われ方が真理に叶った使われ方をしているのなら、プラス循環を繰り返すことで信用が消えることは無いのだろうが、
どうしても、自分勝手な判断で使われるようになると、
それが神からの視点で見て価値が消えていくような使われ方だと、マイナス循環を始め、いろんなものの価値が薄れその代弁する通貨の信用も次第に消えていくのだろう

これは、キリスト教社会が繁栄から遠ざかっていくときに出て来たプロテスタントの繁栄の法則で西洋諸国が繁栄発展してきたことと深く関わっている

それまでのキリスト教では、金持ちが天国の門を通るのは、ラウダが針の穴を通るより難しと言われていたことで繁栄が阻害されていた面が有る
そこに、経済は神の栄光を表すために有るという考え方を入れた為に経済が発展してきた

正しい信仰が背景にあり、その価値観が市場を包み込むことで、その価値が担保される
市場が活性化して繁栄が起きると、どうしても格差が生まれるが
そこでも、キリスト教的精神を持った騎士道精神が発揮され慈善事業も活発になって社会の底上げの力にもなって、
その社会の全体の価値の低下するのを防ぐことにもなっている

以前、三橋貴明氏の文章の中にアダム・スミスを批判する部分が有った
彼の信仰の対象がどこに有るのか知らないけれど
オカシオ・コルテスを引き合いに出し、山本太郎と平気で話が出来る背景を見ても、彼も唯物論者であり、無神論だという事が想像できる

無神論、唯物論では、本当の価値が分からない
神の願いが分からない
その為に、価値判断が蛇行して狂う事になる

この神が造られた宇宙の中で
それでは、存在し続けることは出来ないのだと思う
天罰、神罰、仏罰に頼ることなく自滅する

今、様々な不都合なことが起きている背景には

経済にも、政治にも、教育にも、医療にも
神の栄光が表現されているとは言い難い現状だからだろう

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