陶玄郷

フラクタルの森で薪だけを使い備前焼を焼きながら迷走、瞑想している玄明のホームページ

FrontPage/2021-10-07

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唯物論と唯心(神)論の戦い

今、世界は二つの勢力がしのぎを削り戦っている

フラクタル的に言うならば陰と陽の戦いだ

ここで言う陰と陽とは、魂と肉体(生命)


よく「命の大切さ」という事が言われる

それを聞くたびに、なぜ命が大切なのか聞いてみたくなる

この質問に、人はどう答えられるだろうか

当たり前のことでしょうと言われるだろうが

それでも、何故かと聞いてみたい

おそらく、死んでしまっては元も子もないという考えなのでしょう

この「命の大切さ」を言われる背景にあるのは、唯物論だ

何が大切なのか

それは二つある

魂の尊厳と

命の大切さだ

このことを考えると、吉田松陰の言葉が出てくる

「死して不朽(ふきゅう)の見込みあらばいつでも死ぬべし。生きて大業の見込みあらばいつでも生くべし。」

これは、死ぬことによって志が達成できるならば、いつ死んでも良いが
生きていることで大業の見込みがあれば、生きて成しとげれば良い
と、松陰先生が30歳の時、高杉晋作に宛てた言葉

吉田松陰の人生を見ると、命が大切だとは思えない言動ばかりです

みすみす命を失う方向で生きて若くして刑場の露と消えています

「身はたとえ 武蔵の野辺に朽ちぬとも 留めおかまし 大和魂」

という辞世の句にも有るように

明らかに魂の尊厳を優先しています

この大和魂という言葉に込められている意味は

日本の古来からの歴史、

それも精神文化の流れを見ない限り分からないでしょうが

宗教観を背景に持っていることは確実です

松陰は、下の図の右側の世界観です

結局、左側の勢力と右側の勢力との戦いが起きているのです

死後の世界

左側の唯物論の世界観だと

自殺も簡単に出来てしまうでしょうが、それだと本当に終わりなので

命の大切さを訴える必要が出てくるでしょう

結局、蛇行した現象として表れやすいのです

いま、この左側の世界観の人が多くなっています

その為に、いろんな蛇行現象が現れているようです

それは、何事も前提条件が異なれば後のモノに影響が出るからです

仕事

常に自分自身を主なる存在として

他者の事を考えるにしても、自分が有ってのことであり

自分の命、自分の利益を削ってまで人のお役に立とうとは思わない

しかし、右側の世界観だと違ってきます

今、世界中が、たとえ宗教的な国家であっても

その宗教観は、日本のそれと似て形骸化しており

左側の世界観に支配されている

多くの司祭も僧侶も唯物論に支配され、商売上で神や仏を利用している

私のように右側の世界観を信じている者からすれば、

なんでそんな考え方が出来るのかと思ってしまうことが満ち満ちています

神仏からの視点が無い為に

多くの人が、自分の命や物の方が大切だと思っているからです

神仏から観ての価値観がどうしても得ることが出来ず

魂の尊厳という事が分からなくなっているからです

大和魂、大和の心の中には

聖徳太子の時代から、神道と仏教を融合させ

後に儒教も取り入れながら、日本独特の精神文化が創られてきました

それが武士道を育み、大和の心を育み

今でも、まだ、日本人の資質が世界中から畏敬の念で見られている原因です

その武士道、大和の魂を呼び戻すためには

左側の考えは、間違いだと人々の常識にならなければなりません

これが、今、まさに、ハルマゲドンとして起きています
現状は、唯心(神)論の方が負けているでしょう
ただ、希望があるのは
いま、救世主が地上に降りておられることです

イエスや釈迦以上の力を持たれた方が地上にて活動されているからです
今まで、いろんな予言者が救世主の出現を預言していますが
私は、30数年前にその書籍にふれてから
救世主降臨の確信を時間とともに深めています

しかし、予言は、ヨハネの黙示録を始め悲観的な予言が多い
ただ、より多くの人達が、救世主が現れている事に気づき
その言葉に耳を傾けるなら、予言は大きく捻じ曲げられます



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