陶玄郷

フラクタルの森で薪だけを使い備前焼を焼きながら迷走、瞑想している玄明のホームページ

FrontPage/2021-02-25

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仏性、神性とは何だろう

人間とは、神の子、仏の子だと言われる
この考えを現代の多くの人は忘れてしまったのだろうか

しかし、原点に帰り、この事を考えると
それってどういう事?
その明確な理由が分かっていない現実が有るのだろう


そのようになってしまった原因は、
一言で言うならば、信仰心が希薄になってしまった事

目に見える世界でばかり考え
確認できる結果ばかりを見る傾向性を生み出してきた現代社会が原因だろう

心の世界を深く観ようとしないせいで
多くの人が忘れてしまった結果だろう

心の世界と言っても分かりにくいけれど
いつも使っているフラクタルの森の図の「思い」の所だ
陰陽の陰の部分だ

全ては、陰と陽の要素で成り立っている
この陰の部分をあまり見なくなると、求めているはずの結果が出なくなる

その陰の部分、心の部分、思いの所を見ることに陰りが出てきたせいで
逆に、その部分にあるべき事が強く出てしまう
蛇行してしまうのだ

それは、何かというと「優しさ」に現れる
唯物論の人、リベラル傾向の人達の姿勢に強く現れる

その原因は、どのような人であれ
心の中にインプットされた性質を無視しては生きていく事ができないからだ
創造主が、人の魂を作り、心の原型を作られたときに与えられた
その性質を消し去ることは出来ないからだ

唯物論に染まり、見えているものに引っ張られすぎる事で
希薄になった心の世界を求めるあまり、蛇行して行き過ぎてしまうのだ

その蛇行してバランスを崩した結果
「地獄への道は、善意で舗装されている」ことになる
良かれと思って成した事が、他人に対しても
自分に対しても良き結果をもたらさないことになる

結果ばかり、見えやすいところばかり見て原因を深く観ようとしないせいで
格差とか、悲惨さとか、同情のところに目がいって
その現象さえ消し込む事が出来れば良しとしてしまう所にある

仏教の因果の理法を理解できていない

画像の説明

心違いをして、ヤクザな世界で生きている人たちにも
仏性があり、神性が宿っている
彼らの特徴は、メンツにこだわる
要するに結果にこだわりすぎるのだ

むかし、在日韓国人で知り合いがヤクザな世界に入った
彼の発した言葉で印象深かったのがこんな言葉だった
「軽四なんかに乗る奴の気が知れん」というのだ

要するに、見た目の派手な、誰もが羨むような車に乗らなければ満足できないそうなのだ
高い車に乗っていれば、自分もそれだけの価値が有ると思い安心できるようなのだ

陰陽の関係は、この車と中に乗っている運転者の例えがピッタリなのだ

人間にも、良い子、悪い子、普通の子とあるが
ヤクザな世界に生きている人たちは、明らかに悪い子達だろう
しかし、普通の子であっても、今の現代社会の普通の子は、あまりにも結果ばかりを見て
表面を飾ろうとする

もちろん表面を飾っても良いけれど、表面も飾る必要はあるけれど
中身を磨いて飾ろうとしない限り絵に描いた餅であり
高級車に乗っているヤクザ者と変わりがないことになる

要するに、普通の人が、善人ヅラをしながらヤクザな生き方をしているようなものだ

中身を磨くためには、中身がある事を認めなければならない
心の中にある美を発見しなければならない
神や仏と同じように磨けば光を放つダイヤモンドが
心の中にある事を信じる必要がある

信仰の原点とは、どうやら、そこにあるようだ



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