陶玄郷

フラクタルの森で薪だけを使い備前焼を焼きながら迷走、瞑想している玄明のホームページ

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布施の精神

正直言て、私には布施の精神が分かっていると思えない
宗教団体に所属している以上「布施」という行為は深くか関わってくる

今一度、考えて見ようとするのだが
布施という事に似た行為で「寄付」という事がある


この「布施」と「寄付」に違いがあるのだろうか

寄付という事は、福祉施設や公的団体の活動に価値を認め
お役に立てて欲しいという思いから、自らの価値あるものを差し出して、協力させて欲しいとして行う行為だろう

もちろん、評価を求め、見返りを求める気持ちも紛れ込むことは有るだろう

しかし、神社仏閣で行われているお賽銭だが
これは、少額であるせいかもしれないが
何らかのおかげを求める気持ちが中心となりがちだ

過去、歴史の中で一番人々に価値を認められ多くの資金を集めることが出来たのは宗教だという事実はある
目に見えない世界の偉大な力を人々は感じざるを得ない所が有るからだろうけれど
寄付には、単にお役に立てて欲しいという純粋さを保ちやすいのかもしれない

宗教の力が、神仏の力と重なるために、依存心が生まれやすいのかもしれない
その為に、その恩恵を期待する気持ちが中心となり
自らがお役に立つというところが希薄になり易いのかもしれない

寄付の場合、どちらかというと
自らが神仏の立場に立って協力するというイメージがあるから純粋さを保ちやすいのかもしれない

同じ寄付やらお布施やらの行為の中に、価値観が絡み
その恩恵が働く先に、自と他と全体の世界が有ることで複雑であり
分かりにくい所が
私自身、布施の精神の理解に自信が持てない原因のようだ

考えるに、まず、価値観の問題が有るようだ
お金という価値を基準としたときに
目に見える物、見えにくいサービス、それ以上に見えない霊的世界の恩恵
神仏のフォース
どこにどれだけの価値を見出すことが出来るのかという課題

この価値観の発見が基本には有る
幸福の科学の発する仏法真理の自と他と全体に及ぼす恩恵、その価値を見ようとするなら
その力は、凄くて、素晴らしいモノが有る
その価値を見とめている以上、お金の価値どころでは無い最大の信用が置ける

ただ、あの世も信じる事が出来ず、神仏なる存在も認識できない世界観なら
この価値を感じる事は出来ない

この仏法真理の価値は、味わってみればわかるのだが
味わおうとしない人には分からない
味わう事で感謝の心が産まれ、報恩としての布施とか伝道とかの行為に向かって行く

結局は、どれだけの価値を、目には見えないモノのに感じることが出来るのかという事だろう

ただ、その価値を私自身は、理解しているつもりでも
あまりにも、その恩恵の力を感じ過ぎているために変なブレーキをかけているような気がするのだ
純粋でありたいと思うのだが、その恩恵をイメージしすぎる事で
蛇行している所が有るのかもしれない

基本は、寄付という中にもある、お役に立ちたいという思いがある
そして、そのお役立ちの結果が
目に見えない世界で自分にも他者にも及び
神仏の願いと一体となって世界をより素晴らしいものと出来るということになる

神仏の願いを実現しようと思えば、一人一人の心が
より神近き心に成長することが待たれている
それこそが、創造主が、この宇宙を創られ
この三次元世界も作られ、永遠の命を持った魂を造り出されている意味だろう

その為に、自分自身が造り出した価値で貢献できることの有難さは
自分自身の存在意義の確認と共に大きな喜びにもなるのだろう



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