陶玄郷

フラクタルの森で薪だけを使い備前焼を焼きながら迷走、瞑想している玄明のホームページ

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唯物論と唯神(心)論

この二つを
このフラクタルの森での考え方の陰陽に分けると、行いの部分と思いの部分であろう

画像の説明

思考の順番は、世界観(宗教観)があり、思いがあり、行いがある
これを、逆に辿れば、その人の世界観が見ることもできる


全ての事象に、この世界があり、思いがあり、行いが有るのだが
どうしても、表面に浮かび上がって見えている部分だけを見てしまう傾向がある

そのような傾向性を強める原因は、結局は、世界観に有るのだが
そのような考え方は、左翼思想に向かう

共産主義、社会主義などの左翼思想に向かってしまう原因は、
この行いの「結果」の部分を強く見てしまう所にある
唯物論の起源でもある

この片方ばかりを見てしまうのが唯物論であり左翼思想
その反動も有って唯心論が言われる

全てを簡単に陰陽の二つに分ける事は難しいだろう
この二つは、単純に対立しているわけでは無い
この二つをそれぞれの中で、両視点で見る必要が有るという事なのだ

今、コロナかの対策で
色々あるが、あまりにも唯物論的な対応にすぎる
しかし、唯心論が的な対応も必要なのだ
トランプ前大統領などは、こちらでの対応姿勢が強かっただろう

ほんとうは、この両方の対応が必要だ
日本も非常事態宣言で今のような唯物論的対応しかしなければ
とうぶんの間、経済を止めなければならなくなる
外食産業だけを槍玉にあげているが全産業に被害が及ぶ

ここで考えなければならないのが
先の図の、思いと行いの先にある世界観、宗教観の本質でもある
唯神論の出番ではないだろうか

神は、思いにより、この宇宙を創造された
善悪、清濁、全てを呑み込んで目的と目標を持って創られたのだろう
全ての起源に神なる念いが有る以上
その念いが、私たちの心の中にも有る

それを活性化させる必要があり
神の願いも、おそらく、そこに有る
神様と同じ力を発揮する事でコロナなどのウイルスに負けるわけはない

今、世界は、宗教者だと自認する人たちであっても
神の願いを本当に理解している人は少ないだろう
まして、世界の指導的立場の人たちが唯物論である

神なる存在を無視しては、神の願われている方向とは逆に向かってしまう
世界に人類にとって不都合な現象があり、不都合な存在があるという事は
おそらく、神仕組みの中に許されている事だろう

このコロナ禍が、中国の世界戦略の中で作られて世界にばら撒かれたとしても
このコロナの存在が許されている背景には、今の世界の人々に対する警告の意味が有るのだろう

この宇宙が創造された意味を知れという事なのだろう
神を求めて真理を学び幸福になれという願いが吹き寄せられている

世界を美しくしてほしいという願いが



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