陶玄郷

フラクタルの森で薪だけを使い備前焼を焼きながら迷走、瞑想している玄明のホームページ

FrontPage/2020-08-22

Top / FrontPage / 2020-08-22

考えに違いがあり対立の原因になっているモノを探る

画像の説明


それぞれの意見にはそれぞれの正しさがある為に対立が起こり
時には争うまでになるのだが
その意見の違いの元に有るのは個性の違いや、それぞれの立ち位置の違い

人によって生きている環境は違い
その環境の違いを受けて、それぞれの持っている世界観も違う
もちろん、学びや個別の探究によっても世界観は変わり
人生観も変わってくる

状況(人・時・所)が変われば同じことでも対応を替えざるをえなくなるように
世界観、人生観が違うと当然ながらその人の考え方と行動に違いが出る
この世界観、人生観をあまり議論することが成されないが
とても重要な事だ

その世界観、人生観に及ぼす影響の根源の部分は何かというと
時間と空間に関する部分

画像の説明

一言で表現するなら
「死後の世界が、有ると思いますか、それとも、無いと思いますか?」

この世界観の違いが、各人の人生観に及ぼす影響は多大だ

色んな人に質問するが
無いと思うという答えが大半を占める
曖昧な答えしかない場合がとても多いが
その意見の背景には、無いだろうという意味が含まれている

とにかく、二分するなら
「死後の世界は無い」という意見が圧倒的に多い

死んであの世が無いならば
霊界も無いという事だ
霊界が無いという事は、悪魔も悪霊も、幽霊も妖怪も居ないことになる
当然ながら、神なる存在も、創造主なる存在も無い

必然的に「宗教」の意味するところも変わってくる
宗教で葬式を執り行っていても
単に残された人々の気休めの為でしかない
心の弱い人たちの避難場所でもあり
宗教は、金儲けの道具になっている

宗教は、世界宗教になっている所を見ると
確かに多大な資金を集める事が出来る
奈良の大仏の建立には、当時の国家予算の二倍くらいがつぎ込まれたという
(当時の疫病の調伏の意味があったようだ)
それほどの信用が宗教には有る為に
いつの時代にもどこの国にでも
「宗教」というものは存在する

オウムのように明確な犯罪集団も宗教を名乗り
当時の知識人や東大の宗教学者であっても騙されて犯罪が露呈されるまで騙されていた
(幸福の科学がその実態を暴いたという歴史的事実がある)
様々な所で明かな邪教が常にハビコルことになる

今の伝統宗教も詐欺師レベルに落ちている
あの世を信じていない人が僧侶や司祭をやっていて
言葉ではあの世のことを言いながら高いお金で「戒名」を付けて葬式を行う
信者とは言えないだろうが、檀家の人々も習慣の奴隷となって
あの世も信じていないのに戒名をいただき
素直に葬式をし法事をして空っぽの宗教を支えている

おそらく、その反動もあったのだろうが
「無宗教」という邪教が蔓延している

共産主義のマルクスの世界観では
「宗教は、大衆の麻薬」だそうだ
戦後の高等教育の中でそのマルクスの思想に感化を受けた人々が多く居る
「マルクスを学ばないものは知識人とはいえない」という
世界観が高等教育を受けた人達の中に染み込んでいて
今も再生産を続けているようだ

あの世なるものは無いという世界観が真実なら
中国共産党がチベットやウイグルで行っている「再教育キャンプ」にも正当性が有る

しかし、真実が「あの世は有る」であるならば
「宗教」は、人生の中で無視することの出来ない教養である

戦後宗教教育が成されなくなったことで
中国共産党や北朝鮮の持っている世界観と同じ世界観の人たちが
この日本でも増えて来た
世界中でも同じ傾向を示しているようだ
伝統宗教は有りながら形骸化し宗教を利用した犯罪集団も増えている

宗教の持っている
見えない世界を含めた世界観の探究をすべきなのだ

科学的と言いながら
見えない世界、分かっていない世界を
科学的に探究することを放棄している

宗教を科学する姿勢を取り戻さなければならない

見えないもの (陰陽の両目で見る)
現代社会では
あまりにも目に見えないものを無視し
目の前に見えるもの
表面的で分かりやすいものばかり見ようとする
深く見て深く考えることをしたくないようだ
深く見て 深く考えると無知を認めるしかない
自分の知性を否定されるとでも思うのだろうか
見えている範囲だけで
全てを分かっていると信じたいのだろうか
数字や表面ばかりを強く見て 
その価値を支えているもの
その裏にある見えにくいモノを見ようしないため
色んな価値あるモノが消えて無くなろうとしている
深く見ようとしないため
良かれと思ってなした事が逆の結果を招いている
生命、財産ばかりでなく
魂の尊厳という高貴なるモノまでも捨てようとしている
知識も経験も立場もある人たちが
間違った愚かな判断をする背景には
左脳的なものだけを鍛え         (知性、理性)
右脳的なものを忘れていること      (悟性、感性)
複眼で見ようと努力しないこと
悟性の中心にあり
思想の背景にある世界の探求を怠り
目には見えない最たるもの
神の存在を無視していることにあるようだ



コメント


認証コード(1959)

powered by Quick Homepage Maker 5.1
based on PukiWiki 1.4.7 License is GPL. QHM

最新の更新 RSS  Valid XHTML 1.0 Transitional

備前焼