陶玄郷

フラクタルの森で薪だけを使い備前焼を焼きながら迷走、瞑想している玄明のホームページ

FrontPage/2020-03-11

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なぜ?を突き詰めない社会

震災にしろ戦争にしろ、疫病にしろ
その原因を社会的に見つめようとするときに陥っている傾向がある

それは、なぜ?の本質部分まで見ようとしないことだ
「どのようにして、どうなった(どうしたい)」の所だけで止まっている


画像の説明
ようするに行いの部分、地表に見えている部分だけで止まってしまうのだ

「なぜ」、思い、動機の部分が必ず先にあることを観ようとしない

こう言えば、自然の出来事に動機や思いなど有るかと言われてしまいそうです
たとえば、進化についてもそうです
ダーウィンの進化論では
環境の変化で突然変異して
それが自然淘汰され生き残り
適者生存することで進化してきてと言う

これは、どのようにしてどうなっただけの説明であり不完全な論理です

思いがあると言っても分かりにくいかもしれませんが
生き物には必ず遺伝子というものがあります
遺伝子とは、その生命体の設計図です
設計図の前には設計者がいます

その存在が分からないとして無視するのは大問題です
素直に「無知の知」を自覚するべきです

この宇宙自体も
神の愛によって創造されていると学んでいます

考えれば見えてきますが
粘土で作品を作るときにも設計図が有り思いがあり
そこには、確かに愛と言っても良いものが含まれています

上の図の「なぜ」のところに入るべき必要十分条件は
何でもそうですが「愛」に関連するものが入っています
愛と言っても「与える愛」です

なぜについて考えていないと、手段と結果ばかりを見るようになり
この部分に「奪う愛」と言ったものが入り込んでしまいます

ようするに唯物論の結果なのです
この「なぜ」に与える愛という理念がなければ
良い循環が起こらないのです
ウイルスなどが猛威を振るう原因もこの辺に元は有るようです

霊的なものを認めない
神なる存在が在り、神の思いがあることを認めない
我々が存在している理由を知らず生きているなら
動物たちと何ら変わりません

目に見えないモノがあり
全ては存在していることを信じなければ全ては不毛です



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