陶玄郷

フラクタルの森で薪だけを使い備前焼を焼きながら迷走、瞑想している玄明のホームページ

FrontPage/2020-02-10

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科学的検証とは何だろうか

以前にも考えたことがあるが
科学的とは、現代社会が落ち込んでいるカルト的なモノかもしれない

しかし、原点に帰って考えて見ると
色んな意見が対立して相争う姿があるが
どちらがより正しい意見なのか?その判断材料が必要ではある


意見の対立の背景には、どちらの道を選ぶほうが良いのかという判断がある
その正しさを求めるために何が必要なのかという事だ

ネットで調べて見ると
科学的とは、「論理的」・「客観的」・「実証的」であるさまであるという説明もある

「論理的」という事は、言葉で筋道立てて説明が出来る事を言うのだろう
言葉で筋道立てて考えるという以上5W2Hでの抑えが必要だ
背景の上に課題を載せ積み重ねていく必要が有るだろう
世界の上に課題があり、そして展開して結果が出る
その結果を観て判断して、行動して、結果が出てを繰り返す

これは、タテ軸での考察になる

画像の説明

「客観的」という事は、自分という立場を離れて考えるという事だ
もちろん、これには、どれだけ自分から離れるかという課題もある
善意の第3者の視点考えるとしても
どうしても自分に近い人をもってくるものだ
出来るなら、全人類を我が子と観ておられるような地球神を想定する必要が有る

これは、ヨコ軸での考察だろう
画像の説明

ただ、次の「実証的」というのが曲者である
実際に証明する必要が有るという事だろうが
これは、難しい

ノーベル賞の学者や有名人であっても
その認識が間違っている場合は随所にみられる
彼なりに論理的に説明しているつもりであっても
その賞が与えられる理由は有ったとしてもあやふやなモノではある

正しいと思われていたことが
時間と共に瓦解することは、歴史上数えればきりが無い

実証性は、時代と地域を越えて残っていった姿で判断するしかない

イエス・キリストの正しさは、世界宗教になったとは言え
論理性があるとは言えず、客観性が有るとも言えず
もちろん実証性など、イエスが起こした奇跡に有るはずもない

ただ、彼の「愛の教え」は、時間を越え空間を越えるだけのエネルギーが有った
そのことだけは、間違いのない事実である
その「愛」ゆえに奇跡は起こったのだろう

この救世主の事は別格に考えるにしても

我々は、物事を考えるに際して
この「論理性」という時間的なタテ軸と
「客観性」という空間的はヨコ軸で物事を考える必要が有るのだろう

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