陶玄郷

フラクタルの森で薪だけを使い備前焼を焼きながら迷走、瞑想している玄明のホームページ

FrontPage/2019-12-13

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自(自己)と他(他者)と全体(神)

画像の説明
この図の左端の見方は、唯物論であり
共産主義、社会主義、リベラル傾向の強い人達の心の背景に在る世界です
この人達の傾向として
左脳的に優秀な方が多く優しいモノの見方をされるのですが
ただ、世界の認識の仕方が唯物論であるために
その個人の見方が一人歩きをしてしまい
自分の中の正しさが簡単に一人歩きをします

私は、その反対側に位置していて
どう考えてもこちらの世界観の方が正しいと思っているのですが
ただ、そうであっても
神なる存在が在るとしても
その自分の考えがどこに在るかというと別問題があるようです
そもそも、神なる存在をどのように観るのかという所です

人間は神の子であり
神と同じような性質を持っていても
方向を間違えると堕天使と言われるように悪魔のようにもなります

無宗教は論外であり動物性から抜け出せない人達ですが
宗教であっても悪魔崇拝的なモノが有るようです
そこまで行かないにしても邪宗教があり得ると言うことは
何かが違っているのです

必ずどちらかが間違っておりどちらかが正しいのですが
表面的に正しく世界を見ることが出来たとしても
その人の心がどこに在るかで世界は違ったモノになるようです

その心の置き所に3点有ります
個人(自分の中)と他者(社会の中)と神(全体の視点)
大きく観ると
この3点を移動しながら物事を考えているようです

無神論の人達は神の視点で考えることは出来ないでしょうが
信仰を持っている人でも自分の都合で神仏を観る傾向が有ります
神仏を自分を守り自分たちに奉仕すべきものと考えてしまうようです

御利益が有れば信じるが
御利益を与えてくれなければ信じないと言うように
聖書の中のヨブ記のようになります

この課題は、いつも付きまとってきて
難しい問題でしょうが、これを繰り返し克服すことで
本当の意味での神性、仏性が表面に浮かび上がってくるのでしょう

この宇宙には、天国地獄を含んで、
その比重の違いで表宇宙と裏宇宙とが有るようです

究極の神が願われている世界は、悪魔信仰の世界ではない
凄ければ、強ければ良いというようなものでは無くて
その背景に素晴らしさが不可欠なようです
心の底から神性が喜ぶような感動が不可欠なのでしょう

創造の自由は全てに与えられているのでしょう
プラススパイラルを起こす表宇宙を願い造られた世界なのでしょう
ブラックホールがどのようなモノかは分かりませんが
その責任は、それぞれに取るしかない

陶芸の世界でも
土を素材に好きなモノが作れます
その作品に責任を持つのは当然の事

どちらにせよ
繰り返し
自と他と全体の視点や
現実、事実、真実の視点で
循環させながら考え

そして、論理的に
順番を押さえながら考えることが大切なようです

画像の説明

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