陶玄郷

フラクタルの森で薪だけを使い備前焼を焼きながら迷走、瞑想している玄明のホームページ

FrontPage/2019-12-02

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善悪の峻別が出来ない国家

善悪を決めるモノ
善悪の線引きは
誰によって
どのようになされるのか

それは、法律なのか

その法律は誰が造っているのか?
国会なのか
政府なのか
国民なのか

本当にそれで良いのだろうか?


個人レベルでは犯罪であり悪であり
それを犯すと罪をに問われることが
国家レベルでなされると許される場合が有る

例えば殺人が代表的だが
死刑制度も有れば戦争での大量殺人もある
パチンコなども本質は賭博行為であるが法律の元に許されている
公営ギャンブルなるものまである
個人で運営すると犯罪となる
不思議な事だ

今の年金制度もネズミ講になっている
ネズミ講は、犯罪として認定されている
お金(税金)の集め方も
法律で決まれば二重課税であれ何であれ合法的に取られている

法律で許されるなら
個人レベルでは犯罪になることが許されている現状がいたる所に有る

個人レベルで悪であるなら
本当は、国家レベルでも悪かもしれないのだ

犯罪は、社会にとって悪い循環を起こしてしまうので「悪」と認定されている
「みんなで渡れば怖くない」という言葉もあり
みんながそのような悪に手を染めても罪は問われないが
社会にとって良い循環が起こらない以上、悪であると判定する必要が有るだろう

善悪の判定は
全人類を我が子と観ているような「地球神」をイメージする必要があると思う
全人類の親である存在が判断を下すとすればどうされるだろうかと
これこそ「忖度」するべきだろう

その親の子供であると人間を想定するなら
神の心の一部が理解できるはずだ

その親の「正しき心の探究」をすべきなのだと思う

自分にとっての正しさの探究が普通となって
世界中が狂ってきている事を知るべきだろう

とにかく
日本は、国家レベルで犯罪に手を染めていて
社会に良い循環が起きるわけが無い
その結果、この30年間成長していない
良い循環が起きていないのだ

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