陶玄郷

フラクタルの森で薪だけを使い備前焼を焼きながら迷走、瞑想している玄明のホームページ

FrontPage/2019-11-08

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表現の自由

全てには陰陽の二面がある

表現という言葉にも
自由という言葉にも
二つの面が必ず有る


ここにも良い子悪い子普通の子がある
良い表現も悪い表現もある
良い自由も悪い自由もある

このことを考えることなく
表現の自由は
全て正しいことで守るべきであるというのは
片目だけで観ている事になる

愛知での慰安婦を象徴する展示物など
そこで訴えられている事実は
真実を歪曲したモノであり
日本軍が強制的に性奴隷とした事など無かったことは
その宣伝に勤めた朝日新聞であっても認めざるをえなかったのに
日本軍は悪だったと信じ込む人達によって支持されているようだ

その反対にヘイトスピーチなど
過激な右翼の汚い街宣等もあるが
その表現の汚さが反発されることになる

意見の対立する場面では
汚い表現と綺麗な表現、そして普通の表現とあり
正しさという視点で見るなら
綺麗な表現が正しくて
汚い表現が間違っているとだけは言えない部分がある

善悪の判断が必要なのだが
これはそれぞれが判断している所では難しいことだ
究極の客観的な視点である神仏の視点が不可欠だ

ただ、この表現の自由という課題の中で問題なのが
「良識在る知識人を装いたい人達」の存在なのだ
この問題は、全ての中に有る

「良識在る知識人を装いたい人達」
要するに頭が良くて善人であることを表現したい人達
この人達が、非常に問題なのだ

政治の中にも
経済の中にも
教育の中にも
宗教の中にも
全ての中に存在し
この人達が
社会を
ミスリードしている事が多いようだ

この人達は、左脳的には優秀で
通常は冷静で言葉も綺麗に使う

三島由起夫さんも言っていたが
不良少年は不良と言うことを自分で理解していて
そもそも自分の悪さを自覚しているが
善人と思いこんでいる人ほど始末に悪いものはないと

我、必ずしも善ならず
彼、必ずしも悪ならず

両目でより立体的に観ようとする努力が必要だと思う

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