陶玄郷

フラクタルの森で薪だけを使い備前焼を焼きながら迷走、瞑想している玄明のホームページ

FrontPage/2019-10-29

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自と他と全体

自分というモノを基本にして考えるなら
他者にしても
他者を含んだ環境にしても
自分自身が、それらをどのように見て
どのように感じるかで
自分自身の考えが決まり
その人生に大きな影響を与えてくる


周囲の人々や社会の仕組みや出来事
色んな事が自分の周囲には有り、
それらと関わることなく生きていくことは出来ない

他者を含めた世界をどのように見て
どのように感じていくことが出来るのか
フラクタルの森的な理解で言うならば
左脳的(陽)な論理的見方と
右脳的(陰)な感覚的見方があり

論理的な見方は、ルールに従って見ていけば狂うことは少ないだろうが
感覚的な見方は、人が違えばその見方は相当の違いが出てくる
要するに
次のフラクタルの森
一番下に有る人時所に関する部分である

5w2h

この下の部分、この人時所の見方は
理性的(陽)に見れば事実としての環境に違いは無い
見えている世界は誰にとっても同じ事である

しかし、感覚的(陰)な見方は違ってくる
他者である一人だけに絞ってもその見方感じ方は様々だ
好きな人も嫌いな人もそうでない人もいる
同じ世界に起こる事象でも見る人が違えば苦しいモノに見えたり
また、素晴らしいモノに見えたりもする

この環境の見方、世界の見方は、一律では無いと言うことをしっかり把握しておかなければいけないだろう
そして、この見方は変化していくものでも有り
また、真実、真理としての正しい一つの答えも有ることを
同時に知り、自分自身の認識のギャップの可能性を知っておかなければならない

この前提部分の探求無く
世界に起こる目に見えている色んな事象を正しく論じることは出来ない

自と他と全体の認識は
時間と空間と人間に関する悟りでも有るのだろう
これをどう観るかで後のモノに大きな影響を与えることを知るべきだ

画像の説明
そうやって見ていくと
現代に生きている優秀と見えている人達も
ここの見方に於いて間違いを犯している人達がとても多いことだ
どんなに「凄く」見えていても愚かな人は余りにも多い

逆に何でも無い一般の人の中には
頭脳明晰でなくても自然に深く考え真理に近い見方をしている人達も多い
その人達を深く見ていくと感じられるのが
彼らの「素晴らしさ」だ

昔、「凄さ」においては見るべきモノが無い人との縁で
その人の「素晴らしさ」を感じざるを得なかった事件が有り
視点を変えて観るきっかけ、私の目を開かせてくれた事が有った
頭が良いとは言えずその逆の人ではあった

私自身もその当時は、唯物論、無神論であったので
彼にこのような質問はしたことも無く
もし質問したとしても明確に答えられなかっただろう
しかし、私が彼から素晴らしさを感じた理由にはおそらく彼自身の悟りが有ったのだろう

今、思い返すならば
私の陰陽学の始まりはそこに在った

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