陶玄郷

フラクタルの森で薪だけを使い備前焼を焼きながら迷走、瞑想している玄明のホームページ

FrontPage/2019-10-27

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まとめ

この「フラクタルの森」(玄明陰陽学)で、私は何を言いたいのか
何を伝えたいのか整理してまとめに入るべき時期が来ている

結論として何が言いたいのだろうか?


極端な言い方をすれば
世間の常識の間違い、危うさを提示し
私自身の思っている正しさで説得しようとしている事になる

では、何を根拠として私の意見が正しいと思っているのか
そのよって立つ所は何なのか

考えてみると、その説得技術、その方法に何が有るかというと
論理性と客観性だろう
そう考えていて思ったのが

その前に考えるべき事が有るということだ

結局は、自分という存在とその自分が関わる環境との問題
自と他の関係性だろう

全てが自分の思い通りになるという世界であるならば
なんらの問題も起きることは無い
しかし、現実は、お釈迦さんが悟られたように
人生とは苦で有るという悟り
四苦八苦という苦しみが生まれ
その苦しみには意味があると言うこと

と、いうことは、この苦と思われるようなことは
人生の中における最大の価値あるモノで有る可能性が有る

苦しみは、他者との関係の中に有り
環境、周囲との関係性の中に有る

幸福の科学の教えの中で「人生とは、一冊の問題集」という考えが有る

その問題集の処理の仕方には
自分を中心にして考えるという事は必然では有るが
その内容には3つの面が有る

①周囲を全て自分の思うとおりにするという考えも有るだろう
②自分を捨て他者の考えに添わせていく考えも有るだろう
③自分と他者と協調させ和をもって合わせていくという考えも有るだろう

中国共産党や北朝鮮のように
無神論、無宗教国家なら自分が主体であり
共産主義といいながら自分たちの思うとおりに動かしていく
全体主義的な国家の運営の仕方も有るだろう

日本政府は、その中国の戦略に屈し自分を捨てているような感じも有る

しかし、最善の方法は、第3の方法だ
これは、結局、客観性という見方が一番大切だということ

ここをスタート点として忘れることが出来ないということだろう

画像の説明

結局は、客観性を重んじるのか
要するに、自と他と全体の3点測量が出来るかどうか

そして、全体としての視点をどこに置くのか
客観性の主体をどこに持っていくのか
ここに、大きな課題が在る

自と他の関係性だけなら
力の強い者、頭の良い者、体の大きい者、お金の有る者
大きな軍事力を持つ者、大きな経済市場を持つ者、強引な者、
そのような「凄さ」を中心に動くことになる

ここに全体としての視点を加え
その全体の中に神なる存在を加えた時に違った考え方が出てくる
「素晴らしさ」という価値観だ

私の陰陽学の基本の中心には、この二つの価値観が在るのだ

「凄さ」と「素晴らしさ」
この二つの価値観が、常に頭の中に有ったのだ
凄さは、表面的で目に見えるモノ
素晴らしさは、見えにくく感じるという事になるのだろう

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