陶玄郷

フラクタルの森で薪だけを使い備前焼を焼きながら迷走、瞑想している玄明のホームページ

FrontPage/2019-08-26

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意見の違いの根本原因

たとえば、原発問題や憲法問題などでも
意見が真逆に分かれてしまう事があり
その原因は、いったい何だろうと考えることがよくある
考え方の違いというが、一体何が違うというのか

結局は、下の図の「いつ・どこで・だれが」に関する違いが背景に有るようだ

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画像の説明


もちろん、いろんな考え方が有るのは仕方がないというか
それは、人生観の違いでもあり個性なので尊重すべきことだろう

だが、世界観である
私たちが生きている世界の観方である
ここが違うと考えにも大きな違いが出て来ることを知る必要が有るという事だ

① 死ねば終わり(時間)霊界も無く(空間)神も無く偶然に生まれて来た(人間)存在なのか

② 死んでも魂は残り(時間)天国地獄というような霊界も有り(空間)神仏の子として創られた(人間)存在なのか

大きく分ければ、この二つだろう
そして、この二つの考え方の中間的なモノも有る

× 考えたことも無い人
△ ぼんやりと思っている人
〇 たぶんそうだろうと思っている人
◎ 確信している人

その程度差により、考え方や判断に差が出ることは想像できることだ

これについては、色んな意見が有ってもいいじゃないかと放置して良い問題ではない

一番重要なのが、神仏の存在に関してだ

もちろん①は、無しということで簡単だが
②の場合は、その中身を観ようとすれば複雑で色んな意見が有るだろうが
簡単に言えば①と②は、無と有の違いだ

①の無しで見る場合は、今という時間に、ここに居る自分の都合が優先される
これは何かというと「自己中」で考えると言うこと
あくまでも自己を主体として、未来を考え、その都合で他者を考え国家を考えることになる

左翼思想、共産主義の人達は、こちらであり、神仏を認めない
宗教を認めない、まさに①の世界観なのだ
そして、主なる神が、個人であり、自分の都合を優先することになる
当然、個人の権利、人権を主体に考える事になる

②の有の場合は、未来を考えるのにも
無意識に来世、来来世の事も考えてやりたい放題の事は出来にくい
神仏の心を忖度し
神仏の願いがどこに有るのか、
その願いを裏切るような判断をしていないだろうか考える必要がある
そして、同じ神仏の子である他者の事も自分と同等に考えざるをえなくなる
神の子としての義務とは何だろうかという視点も生まれてくる

この二つの違いは、様々なところで大きな違いが出てくる

要するに神を信じることが出来ない、認めないと言うことは
神と対立する者の意見に影響される可能性が有ると言うことだ

原発問題でも憲法問題でも
自己を主とした考えでは、簡単に自分の立ち位置の都合で考えるだけで良い
非常に単純であり、簡単だ

しかし、神なる存在を主として考えるなら
神仏の子である他者の都合も考えざるをえなくなる
自分の命を越えた未来も考える事になる

色んな課題を想定してみると、神仏や天からの視点を感じていては
自らの良心に恥じることは出来にくくなる

日本の武士道が「恥を知り」立派であり
戦前の日本の軍隊が規律がとれ優秀な軍隊だったのも
日本人が誠実で勤勉だったのも
全て、神仏なる存在、天なる存在を意識していたからだ

無宗教と言ってはばからない人でも、本質は多神教であり
お寺にも神社にも教会にまでお参りをする
その文化は、形骸化しつつも心の奥に残っているから世界から見て信頼されているのだろう

政府の借金が膨大に有っても、驚くような金融緩和がされても
世界が不安定になると円の価値が下がらず
円が買われている原因の一つだとも思う

しかし、安心していてはいけないのだ

いまだ、共産党という無神論政党があり
れいわ新撰組というような共産党に取って代わろうとしている政党も出てきたが
この神を否定する勢力の後ろには
悪魔がじっと見ている事を知るべきだろう

まさにハルマゲドンの最中に居る


30歳頃、私が考えたことが有るのは「時間」と「空間」に関することだけだった

超能力的なことをやっていたことで、見えない世界は有り
思ったことであっても因果関係の元に結果に結びつくことを実感していたために
「たぶん死んでも終わりではないだろう」
「この念が実体化している世界が有るのかもしれない」
その程度の認識をしていただけで生きていた

ただ「空間」に関しては△とてもぼんやりしたものだった
「人間」に関しては×であり
「神」なる存在を深く考えたことは無かった

今、考えると、
この「神」なる存在を認識して考えるという事が
どれほど大事な事なのかが分かる

「神仏の子であり、神仏の願いが有って生きている」ことを確信するかしないかでは
大きな違いがある
大きく考え方に違いが出て来るのだ

その神という存在をどう見るのかということ
これによっても違ってくる

訓詁学のように過去の神仏の残した教えに従う事も有るだろう
しかし、時代は変わる
仏陀の最後の教えに「法灯明と自灯明」というのがある
仏陀の教え、法により道を照らして歩んでいく方法も有り
自分自身の明かりで道を照らすという方法もある

私は、今、過去の宗教家の教えを学びながらも
自灯明でも考えている

それはどういうことかと言うと

人間が神仏の子であるなら
神の願いと同じものが、それぞれの心の中に組み込まれているということ

親が、子や孫に願う事と同じように
神仏が、人々に願われているだろうという事が想像できる

フラクタルとして神仏と人間は一体なのだろう

もちろん、神は、人間の最高の親以上の存在だ
神仏の心をわが心として生きることは難しいが
最高に良い親の立場に立って見る努力をすれば、なんとか見えてくるだろう

全人類を我が子と観ているような神なる立場で考える努力をすれば
今、現代に生きている人間の中で
同じく神仏の心を心として生きて行こうとしている人々の存在が浮かび上がってもくる

そして、常に神仏の心を心として
社会に働きかけをしている存在が、天使であり、救世主でも有り
地球神と言っても良い存在なのだろう

これは、逆照射であるのかもしれないが
幸福の科学の大川隆法総裁の説法や
その指導方法を観れば、まさしくそうなのだ

基本的な指針は示されるのだが
至れり尽くせりで全てを説明されることは無く
自分たちで考え道を切り開くことを教えてくださっている

ご自身の家庭内のトラブルも公にされ
そこに在る学びの材料も示され
私たちの人生の学びの参考になるようにとされている

まさに、最高の親なる存在なのだ
そして世界中の人々が学び自分たちの力で国造りをして
素晴らしい社会を作り上げることが出来るように
様々な指針を示されている
(宇宙人さえ来て学ぼうとしているようだ)

一見するとただの人間の普通の親である
しかし、その心の中の
時間・空間・人間に対する認識は
無限大ともいえるほど大きい
私たち凡人には、見えているモノしか見えていない

この幸福の科学の教えを拒否し
神なる存在を否定する人たちにとっては
決して、その偉大さすばらしさを観る事は出来ないだろう

せめて原点に帰り、自分の持っている世界観。人生観を見直してほしいものだ

※ 死ねば終わり(時間)霊界も無く(空間)神も無く偶然に生まれて来た(人間)存在

この見方から一歩でも抜け出すことが出来たなら
神の願いが何であるのか見えてきて
自分自身の未来も明るいものとなって開けてくる



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