陶玄郷

フラクタルの森で薪だけを使い備前焼を焼きながら迷走、瞑想している玄明のホームページ

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第三の視点で考える

人が景色を見る時
両目の映像、要するに二つの映像を見ているのに
実感としては、一つの映像を見ている感覚である
これは、どういう事かと考えると
ここには、大いなる示唆があるようだ

画像の説明

脳は分担して働いているという
左脳は、論理的であり
右脳は、感覚的であるという

私は、今はやりの脳科学なるものには否定的であり
全てが脳の働きによって起きているとは思っていない
脳は、あくまでもコンピューターのハード部分であり
その中に目に見えないソフト部分が有ると思っている

陽と陰の関係であり
AIもパソコンもスマートフォンも同じであり
フラクタルであると思っている

全てにハード(陽)とソフト(陰)が有り
それを使いこなす人間にもハードとソフトが有る
また、その装置を造り出す時にも
創り出す人のハードとソフトを使ってのことだ

全てが陰と陽の要素で循環し出来上がっている


脳という組織、その奥に
さらに目に見えないものがある
そのハード部分(陽)もソフト部分(陰)も
実体が有るという事は、システムとして出来ていることであり
ハード部分には、遺伝子という設計図が有る
ソフト部分にも、プログラムという設計図が有る

設計図が有り、プログラム(陽)が有るという事は、
設計者が居て、プログラマー(陰)がいるという事だ

陽・目に見える存在の裏には、さらに
陰・目に見えない存在が有る

この陰陽の流れ、因果関係の流れを掘り下げて追っていくと
抽象的ではあるが、神という存在に突き当たる
ここまでくると、分からないという事が現実だ
誰も明確な答えを出すことが出来ない

たとえ、偉大な宗教家であっても
その悟っている内容を明確な形で人に伝えることは難しい
一人一人が悟っていくしかないのだろう

そこで哲学的な悟りとして、私は、
ソクラテスの「無知の知」が有ると思っている
探究しつつも知らないのだという認識だ

現代の知識人たち、昔も同じようだったのだろうが
立場もあり見識も有り優秀な人たち程
この無知の知という自覚が無いようなのだ

専門家という人たちも
知識を積み重ね、その道のプロのように思っていたとしても
途中で探究することを止め出来上がってしまう傾向がある

商売上、知らない、分からないと言いにくいという
自己保身の思いが、おそらく背景にあるのだろうが
自分が獲得した知識にこだわり、そこで完結させようとするようだ

政府の財政諮問員会とか、いろんな審議会に参加する
有識者たちと言われるような人たちが落ち込んでいる罠だと思う

要するの、基本的な所で深く考えることが出来ていないために
愚かな判断を繰り返してしまうようなのだ

はっきり言って、「神」なる存在を考えていない
神の願いがどこに有るのか考えようとしないで
自分の都合で、自分の利害で考えるのみ
そして、それを他者に押し付ける

しかし、考えるという事、判断するという事
これらは、コンピューター部分(頭)でやっている以上
色んな現象がその脳の部分に検証可能な形で表れても来る
それが検証可能になったからと言って
脳の機能で全てを分かった気になるという事は、あまりにも愚かである

現代でもてはやされている脳科学の愚かさ、おぞましさを理解する必要がある

玄明陰陽学では、この脳の持っている機能構造をプラットホームとして使ってはいますが
唯物論である脳科学とは全く無縁のモノであります

玄明陰陽学では、
左脳と右脳が右目と左目が無限大マークのようなつながり方をしている形に注目しています
その人の頭の構造の中に様々なことが当てはまる事の不思議を感じていただきたいのです

玄明陰陽学では、次のように翻訳します

右脳は、感覚脳と言われるので 感性と悟性 と翻訳し      陰
左脳は、論理脳といわれるので 知性と理性 と翻訳しています  陽

そして、さらに論理的に考える為に
悟性・感性・知性・理性と
「いつ・どこで・だれが・なにを」・「なぜ」・「どのようにして」・「どうなった(どうしたい)」の5W2Hとも連携させています

さらに、陰と陽の関係を見るのに
時間と空間と人間という「間」の問題を考えます
その間には、両目で見ることで生まれてくる
額で見ているような第3の視野が見えてきます
本来はここで考える必要が有るのですが
左脳的に鍛え過ぎて優秀な人たちの中に
その右目でしか見ていないものを中心に見る傾向が有るという事です

的を射るのに左目をつむり右目だけで的を狙っている感じです
それも大事なのですが
片目では、横軸のサーチしかできないのです
縦軸でも見なければ、現実には重力で落下します
両目を開けて十字架でサーチしなければ的には当たりません
風を見て、距離を見て、重力を見て、自分の力を見て的に向かうべきなのです

同じこと
部分と全体は自己相似性があるという
コンピューター用語であるフラクタルそのものです
現実の世界もコンピュータの世界と同じく
ゼロとイチ、オフとオン・左と右の陰と陽の流れで出来ています
深く考えていくとそんな感じです

額に有ると言われているチャクラで見ている映像は、次にあげる③の視点でしょうか
本来、かじ取りはこの③の視点で行うべきなのです

無知の知を知らない知識人が陥っているのは①での視点です
これは何も知らない普通の人以下になっているのですが
多くの人は、基本的に言うと、この①の視点で考えています
左翼的な人に頭脳明晰な人が多いのですが
この片目だけで見てしまう傾向が強いようです

そして、保守の方の観方の多くは②の視点も開けている感じでしょうか
もちろん、保守と言っても右翼的な人たちは
時々②を見ながら①の右目を中心に見ているようです

人の考え、その視点は動いていくものですから
決めつけてもいけないでしょうが
①と②の視点を持ちながら③の視点を大切にする必要が有るという事です

時間、縦軸での見方

①現在 ②過去 ③未来

空間・横軸での見方

①自 ②他 ③全体   

4次元的霊的見方

①現実 ②事実 ③真実 

 
4次元的人間的見方

①悪い子 ②普通の子 ③良い子

政府の資金調達法

①税金 ②借金 ③造る

善悪の判断をどの自分がしているのか

①自己中 ②集団として ③神仏の子として



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