陶玄郷

フラクタルの森で薪だけを使い備前焼を焼きながら迷走、瞑想している玄明のホームページ

FrontPage/2019-08-18

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自我我欲から離れよ

善悪の判断をどのような自分がしているのか考える必要が有るのだが
注意しなければならない点がある

①個人としての自分
②国家(集団)の一部としての自分
③神仏の子としての自分

自己中で見ている人は、神仏を考える時にも
自我から観ていることが有るのです

神様を自分の道具のように扱っている場合が有るのです
自我我欲のままで見ているせいで
神仏を自分の内に引き入れて利用しているケースです


人間は全て神仏の子であり、神仏の分霊でもありますが
その自分から離れて観る事が出来ないために起きているのです

この現象世界、この世では
学びの為に様々な圧力が働きます
その圧力の中で自分と言うモノを握りしめた状態で
どうしても考えてしまうのです

そういった人々が、邪教を支えたり
伝統的と言えば聞こえが良いが
形骸化し訓詁学のようになり足かせにしかなっていない宗教にしがみついて
自分自身を守ろうとします

自分の現状から離れることが出来ないのです

やはり順番が有るようです
自分を離れ自分以外の人の立場に立って考える事
自分と対立している意見の人の立場に立って考える事
その対立する意見の中で考え苦しんだ経験が必要です

それが出来て初めて青銅の扉を開くことが出来ます
神仏の考えに回答を求める気持ちが生まれてきます

画像の説明

ある意味、瞑想の極意なのかもしれませんが
この訓練は、知らずに皆さんやっている事です

しかし、これが苦手な人たちが居ます
なまじ、頭が良くて優秀な人たちです
左脳的にだけ優秀な人たちです
自分に自信を持っているような人たちです

そして、臆病で
自分の正しさを一旦捨てて観る事が出来ない人たちです

そのような人たちが
神格を持たないような神を信仰したり
「無宗教」という邪教の信者たちとなるのです

その原因は、本当には信じることが出来ていないせいで
自我我欲から離れることが出来ないのです

この世界には、

霊的世界が有り
創造主たる神がおられ
人間の本質は霊であり
永遠の転生輪廻の中で
魂を磨き
より素晴らしい存在
より、神近き存在になろうと努力している

この世界観(宗教観)を確信出来て
共に神仏の子として、他を敬う事が出来ます
他を敬う事の先に神仏の姿が見えてくるのだと思う

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