陶玄郷

フラクタルの森で薪だけを使い備前焼を焼きながら迷走、瞑想している玄明のホームページ

FrontPage/2019-07-27

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お金(価値)の意味するところ

この世では、常にお金が付きまとう

大きな政府、小さな政府の議論にも
福祉に関しては、高福祉高負担か、それとも、低福祉低負担なのか意見が分かれる

教育の無償化とか言ってもお金がタダになる訳でも無い
税金で負担するというだけでお金の問題から離れるわけにはいかない

政府の大小は、本当は福祉だけではなく、経済や国防問題である
どちらにせよ、お金が関わってくるのだ

その一番気になるお金の問題の本質を知らなければ
本当は、何にも始まらない

そのお金とは、一体何なのか考えて見ると色んな見方が有るが
玄明陰陽学から観ると
その本質は、信用を背景にした価値である

画像の説明


この本質部分は、あらゆる全ての存在に当てはまることのようだが
ここでは、単にお金の事についてだけ考える

信用は、基本、人が主体として観ているモノだろうが、人にもいろいろある
信用を担保している存在の問題だ
誰が信用を置き、誰の信用がイマイチなのか

価値も、数字は格差を表現するモノでもあり、数字に出来る場合も有るだろうが
数字に表すことが出来にくい感動もそうだろう
価値の最高のものは、数字にも言葉にも表すことの出来ないものもある

結局は、良い信用・悪い信用・普通の信用とがあり
悪い信用を背景にしたものは、当然ながら、その価値もそれに準じて変化する

良い信用の極致に有るものは何かといえば、神仏からの信用だ
常にこの事を考えておかないと
表面的に最高に見えていても、その価値は、あっという間に消えていくことになるだろう

古今東西の霊能力者の言い伝えの中で
死後、赴いている世界のことが表現されることがあるが
天国に行っている人たちの表現で面白いものがある

もちろん、その世界にもレベル差が有るようだが
とりあえず天国の描写は、光があふれ花が咲き乱れる美しい世界であり
金銀財宝がちりばめられているという表現しか出来ないようなそんな素晴らしい世界、言葉で表現できないような価値を含んだ世界も在るようだ

それに比べて、地獄世界の描写は、価値と言えるようなものではなく
おぞましく、一刻も早く逃れたくなるような世界のようである

この地上での生活で天国地獄の峻別は難しいのかもしれないが
人間が神の子である証明は、心の中に誰もが持っている感覚だ
この悟性とも感性とも言われるもので観ようとすれば見えないわけではない

人は神の子であり、周囲に生きている人々も神の子ではあるけれど
この現象世界では、一人の自分としての認識から始まり、どうしても自己中の考えになる
その自己が問題なのだ

最悪の自己は、自分さえ良かれと言った考えであり
最良の考えは、神仏の子としての自分だ

神仏なる自分を主とするのか
他者を踏みつけても自分さえ良かれとする自分を主とするのか
この自分が天国と地獄とを分ける

この2極の中間に、国家や家庭、集団としての自分もある

この3点測量をもって
政治や選挙を考え
その背景にあるお金(価値)の流れを観るならば
その候補者が、その政党が、その投票者が
一体どこにいる自分を主として考えているのかが分かるだろう

明かなのが、思考停止状態でもあるのだろうが
地獄領域に居て考える人たちが多いという事だ

今、話題のMMT理論も
神仏の信用を背景にした使われ方なら
どんなに福祉に使おうと、どんなにインフラ整備に使おうと
どんなに財政出動しようとも
そのお金の価値は消えることは無い

ただ、多くの人々が求めているような
「ゆりかごから墓場まで」では済まないのだ
墓場の後があることを忘れてはいけない

神仏は、わが子である全ての人々が地獄に落ちることを望まれてはいない
より素晴らしい人格を築き、より素晴らしい天国に帰ってくることを願われている



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