陶玄郷

フラクタルの森で薪だけを使い備前焼を焼きながら迷走、瞑想している玄明のホームページ

FrontPage/2019-07-25

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「信仰心」

結局は、信仰心の問題でしょう
誰を、どこを、主体として考えるのかということ

考える主体は、自分ですが
その自分をどこに置いているかです

信仰を持っているとしても
その信仰の対象としている「主体」がどこに有るかです
画像の説明


どのような世界の中で
どこを主体として考えるのか
この違いが判断を左右します

フラクタルの森での一番重要な所です

自分の中で考えるのですが
その自分が、その世界観によって大きくも小さくもなります
自分と認識している自分には変わりは有りませんが
悪魔のような自己中心の自分も有れば
小さな生き物としての自分も有り
神の子としての自分も有ります
その間をつなぐ様々な自分が有ります

その中身は、分かりかねますが
その判断の内容や意見を聞いていると次第に見えてきます

その立ち位置によって
好嫌や損得は違ったモノになり
進んでいく方向も違ってくる

このように自分と言っても一律でないように
その自分が感じる神という概念も同じように違ってきます

自己中の自分自身を神と観たり
ご先祖様をそのように観て加護を祈ったり
それぞれの宗教の主なる存在を神と観ます

要するに何にこだわっているのか
何に執着しているのか

チャンネル桜の水島さんは、皇室、要するに神道にこだわっているようですが
皇室、神道を主体として自己中になっているようです
皇室の奥には神の存在が在ります
創造主たる神につながっている神も有ります

要するに、観ている奥に有るモノが問題なのでしょう

神にも
良い神、悪い神、普通の神と有ります
最悪の神も有れば、根源なる神も有るでしょう

私においても
良い玄明さん、悪い玄明さん、普通の玄明さんが有ります
良い玄明さんを拝み出し
その比率を多くしていく努力が必要です

そのための必要不可欠十分条件は、
「自分たち」の観方であり
神仏の子である自覚と
永遠の転生輪廻の中で魂を磨いて
共に切磋琢磨している存在であることを信じる事です

私達がダーウィンの言うように偶然に生まれて偶然に進化しているだけの存在であり
死んだらそれで終わりと言う宗教観
要するに唯物論の場合には、全く違ったモノになります

自己中で生きる事がなぜ悪いのかも分かりませんし
お為ごかしに人の心をつかむことも巧妙にやることが出来ます
良識有る知識人としての自覚は左翼的傾向を持ち
リベラル傾向を保つことになります

体制側に居ない時には、左翼的になり
体制側に立つと、全体主義になります
要するに、唯物論、無神論という宗教観が支配して
その反対の有神論(唯神論)を弾圧します

それが、今の中国共産党の現実です
今、中国に親和性を保っているような政治経済人は
同じ宗教なのかも知れません



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