陶玄郷

フラクタルの森で薪だけを使い備前焼を焼きながら迷走、瞑想している玄明のホームページ

FrontPage/2019-04-08

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選挙に対する不信感

選挙が、また行われた
選挙のたびに思うのだが
本当に適切な人が選ばれたのか疑問に思う

人は何を基準に選ぶのだろうか
選挙戦のさなかを見ても
候補者名の連呼でもあるように名前の売り込みである


と、非難しつつも
私も知っている人にしか票を入れられない現実がある

候補者の訴えている内容も
あまりにも表面的できれい事ばかりが目に付く

結局は、その人の思想が仕事をするのであり
その人の世界観、人生観を背景にして物事を判断するのだから
その人の心象風景が見えるようになれば良いのだが

画像の説明

中でも重要なのが人間(主体)の部分だ
主体をどこに置いて考えるのか
人はどうしても考える主体を「自分」の中に置く

たとえ信仰を持っているという人であっても
どうしても自分が、自分たちが主体になりがちなのだ
自分の利害、都合、好き嫌いに影響されて
信仰すら利用してしまう

まして、信仰心の無い人は当然だろう
選挙制度を見てもどうしても自分たちの利益の代表を選ぶというモノになっている
神に代わって行政をになっていく姿勢は見られない
神仏すら自分たちに利益をもたらすモノという考えのモノもある
確かに親である神仏は、子供の幸福を願っては居るだろうが
神仏を利用するばかりの宗教も有る

現代の政治を見ていて
国政も地方も何だか尊敬できない雰囲気が漂っている
おそらく神近き理想というモノが感じられないからなのだろう

正しき心の探究」無く政治経済の舵がとられていくようだと
未来は危ういモノとなってしまう



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