陶玄郷

フラクタルの森で薪だけを使い備前焼を焼きながら迷走、瞑想している玄明のホームページ

FrontPage/2019-01-14

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誰が(主体)という要素

主体をどこに置くかで変わってくるモノが有る
全てが変わってくると言っても良いのかもしれないが
特に、何を(課題・客体)の意味が違ってくる

もちろん、この場合、主体は人間に置いてでの事だ

画像の説明

そして、注意しなければならないのが主体の持っている意味だ
立場の違いだけでなく人間をどう見るかである

人間と言っても、単なる動物の面も有ると言うことと
神性、仏性というように
神近き存在としての尊厳を見る面も有る
幅がものすごく広いのだ

朝鮮半島などの歴史問題に関しても
韓国人、日本人の立場の違いだけでなく
魂の境涯の違いという側面のどこに置いて考えるかということ
この陰陽両面で観る必要が有る

もちろん韓国人の中にも素晴らしい人は居る
もちろん日本人の中にも愚かな人は居る


「何を」という課題、客体に「信仰心」という事を入れて考えても   
「誰が」という主体の意味が変わってくれば
手を合わせ祈っている姿などが同じに見えてもその中身は大きく違ってくる事になる

世間で色んな人に「信仰心」は有りますかと聞けば
ほとんどの人は「有る」という
しかし、その信仰の対象は何かと問えば
深くしつこく聞いていくとその答えは様々なのだ

特徴的な言葉は、その信仰の対象が「自分自身」なのだ
もちろん神仏の子である存在なので意味として間違っている訳では無いけれど
その自分自身の中には、動物性から神近き存在として広い幅が有る
本質的に主体がどこに置かれているかで後のモノに大きな違いが出てくるのだ

何かが有ればすぐに略奪行為に走る人も居れば無意識に自制する人達も居る

私の一番好きな言葉で有り
幸福の科学では「正しき心の探究」が言われ
神仏の心を心として考えることを教えられているが
私には正直言って出来ているわけでは無い
努力目標としているという状況である

と言うことなので、色んな局面で反省すると
色んな物事を小さな自分という主体に置いて反応し考えている現実が有る
ほめられるような状況で無いことが多いのだ

「信仰」を試される事が多々あるが
信仰心を揺るがされている時には、間違いなく
主体を小さな自分、動物に近い部分、
動物的な本能の部分を中心にして考えているようなのだ
自分という個人の利得や感情を中心にしている

結局は、自分の中のどの部分を主体としようとしているのかが問われているようだ

祭壇の前で祈っている自分の姿を見ても
その主体がどこに置かれているのか分からないということを
前提にして反省し努力していくしかないのだろう

ただ、ありがたいことに
この学びから私は嫌いな人が居なくなっているということだ
間違っていると思う人は多いけれど全ての存在の中に
仏性が有ると言うことを信じられているせいで
その人の良いところが見えてくるせいだろう
いとおしく感じるのだ

しかし、明らかに間違いを犯している人達に対しては
その事に関しては、大きな憤りを感じてしまうのだ

消費税問題でも官僚や政治家や御用経済学者などの心が
その主体が、明らかに動物的な小さな自分を主体として考えている事が見えるから
その住んでいる世界を小さな小さな自分の周囲の世界に閉じこめて
その優秀な頭脳を腐らせている事が許せないのです

自分の中に有る傾向性と同じモノが見えるから
何とかして本物の信仰心の元
それぞれのその仕事を完成させて欲しいと願っているのです



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