陶玄郷

フラクタルの森で薪だけを使い備前焼を焼きながら迷走、瞑想している玄明のホームページ

FrontPage/2018-12-17

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あと一週間でクリスマス

私には昔から不思議な感覚が有った

20代のころ、初めて聖書を読んだときに涙が吹き出したのです
一番ツボにはまったのが「汝の敵をも愛せよ」の所でした
その時の反応は少し異常とも思えるものが有った

しかし、クリスチャンになることは無かった

砥部焼で働いていた時にも
お世話になった家族はキリスト教(プロテスタント)で
仕事をしながらよく聖書に話をしていました

しかし、聖書の理解が私と違っていたのです

ある時、その家族と一緒に教会に行きました
牧師さんの説教を聞きながら思ったのが

この方たちは、イエスを冒とくしていると思えたのです
しかし、その後で賛美歌を一緒に歌ったときに
また、涙が吹き出すのです

ただ、この教会の人たちの聖書の理解は
間違っているという思いから離れることは有りませんでした


今考えてもあれほど胸の奥が打ち震えるような感覚が
どうして有ったのか不思議でしたが
それ以後も聖書の話をしたりすると涙がこみあげてくるのです

その後、霊的能力を持っているような人たちとの縁もあり
仏教を学び、幸福の科学でも学び
転生輪廻のことを学び、過去世が有ることを知ってからは
そのイエスに対する極端な反応の理由が分かりました

幸福の科学に入ってから、その中にも霊的な人がいて親友となりましたが
知り合った半年間はよく霊道現象をやっていました
(途中から危険を感じてストップ)
色んな霊人に彼の中に入ってもらって話をするのですが
まだ、学びの浅かった私はまともな会話も出来ず
霊人たちが言いたいことを聞くばかりでした

ただ、ある時に私の潜在意識、守護霊だったと思われますが
霊人に質問したことが有るのです
「これから、私は、陶芸の道で生きていこうと思うけれど、それはなぜなのか」という変な質問でした

すると、答えは、過去世で何度も陶芸に関わってきた人生が有り
それなりの実績もあったことを告げられ
イエスにも使っていただけて喜ばれていたことを告げられたのです

陶芸のことは分かりませんが
イエスキリストに対する自分の心の奥の方での反応を観ると
イエスキリストと同時代に生きてイエスの説法を聞いていた過去があるのだと確信しました
心の深い所にその記憶がありその記憶が時々表面意識まで上がってくるようです

救世主に器を使って喜んでいただけたという事が
どういう意味を持つのかよくわかりませんが
今世でも、大川隆法という救世主に器を使って喜んでいただくという機会に恵まれました

窯を造りスタートして半年しかたっていないタイミングでしたが
コンベックス岡山で初めて講演会が開かれる時
接待で私の茶碗を使っていただき
それがご縁で
7月の生誕祭の時に中国本部からORマーク入りのお茶碗を献納することになったのです

秘書の方からでしたが
たいへん喜ばれていましたと手紙をいただきました

前世と同じような経験することが有るという事のようです

ただ、ゴルゴダの丘でのイエス処刑の時には
私も逃げ出していたのでしょう
イエスを知らないと言ったのかもしれません

おそらくそのせいもあるのでしょうが
幸福の科学のメンバーになれた時に強く思ったことが有ります

「か弱き善人にだけは、なりたくない」と



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