陶玄郷

フラクタルの森で薪だけを使い備前焼を焼きながら迷走、瞑想している玄明のホームページ

FrontPage/2018-12-06

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私が信じている事

今日、ふと、私が信じていることに疑問符を投げかけて考えてみた

信じている内容というのは
「人間は、お役に立ちたいという愛の理念が込められ創られている」
人は、何かのお役に立ちたいと思って生きているということ
人間の原点は、この事を無視して考えることは出来ないと確信している

私は、あまのじゃくかもしれないが
逆から考えて見るという事を時々する


陶芸を始めて土に触り続け
幸福の科学で仏法真理を学び続け
「全ては、愛の存在」だと信じているけれど
それを一度否定して物事を考えて見たのだ

人の役に立ちたいなど詭弁であり
おためごかしだという視点で心の中を見てみたのです

あまりこんなことを極端な視点で考える人はおそらく少ないのだろうけれど
現実には多くの人が自己中心なものの考え方をするのは理解できる

かくいう私自身も深く考えることをしなければ
自己中の考え方が独り歩きしている
他者のことなど深く考えることなく自分の希望が叶う事を中心に考えている

過去にはそんなふうでイッパイ恥ずかしい思いを描き
実際に恥ずべきこともやってきた
そのような経験を思い返すと
そのようなことで得られた幸福感の薄っぺらい事よ

試しに自己を中心にして色んなことを考えてみると
今の経済の問題でも、政治家の立場に立っても
財務官僚などの立場に立って考えて見ても
彼らの判断と行動が理解できる

犯罪者の気持ちも
犯罪をしているつもりも無く惰性で社会を暗くしている仕事をしてる人たちも
その心の中に在る
その心を占めているものが分からなくはない
それぞれに自分が正しいのだ

しかし、
魂は永遠であり、魂の向上を目指して転生輪廻しながら努力しているという
霊的人生観をもって物事を考えるならまったく違った感覚が生まれてくるのだ

そうして、子供を育ててくると
神様が宇宙を創り、我々の魂を造り
命を造り、育まれている理由がなんとなく見えてくる
想像できるのだ

私たちの心の中で
なにが一番感動できるのか

色んな感動をイッパイ経験して来た人たちは理解できるでしょう

他者の役に立つどころか
他者から奪って得たものでは本当は幸福感は得られない

どんなにイメージしても
結果だけでは満足できないのだ

お金の問題でも手に入れさえすれば幸福になる訳ではないことを
誰でも本当は知っているはずです

人のお役に立った結果が対価を生み
そのお金で億万長者になったならば
陰陽ともにそろい幸福感は最高でしょうが

詐欺行為などで得られた幸福感であるなら
一体どうでしょうか

神様から観れば、悲しまれるだけでしょう
親から観れば、悲しいだけです

人の心は、そのようにしか作られていない
それを認めるべきです
それを信じるべきです

逆から
どう考えてみても

人とは、愛の存在です
神とは、愛の存在です

それを認めるしかない



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