陶玄郷

フラクタルの森で薪だけを使い備前焼を焼きながら迷走、瞑想している玄明のホームページ

FrontPage/2018-06-17

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神(創造主)の存在は?有るのか無いのか?

この課題も「分からない」が正解です
しかし、人それぞれに色んな認識が有りますしそれでは思考停止です
それぞれに違った考えが有っても良いじゃないかという意見も有りますが
真理は一つであり、自分を神として強度の自己中心の考えの人も出てきて
異常な行動を起こす人もいます
真理を求める必要性を感じます


        有る      分からない     無い

現実      ◎○△       ?       △○◎
 
事実    証明不可能              証明不可能
      宗教家の存在            無神論者の存在
   ・生命体にも遺伝子という設計図がある  ・地上の混沌とした現状や多くの人々の不幸が
    ということは設計者が居るということ   そのままになっている現状がある                        
   ・生命の存続や宇宙の存在の中に
    奇跡の連続を思わせる事象が在る     

真実    こちらが真実なら           こちらが真実なら
   ・心の中まで観られている可能性があり  ・それぞれの正しさが中心となり 
    隠し事は出来ないことになる   それぞれの個性に対して文句を言われる筋合いは無い      
   ・「正直は一生の宝」ということわざが成り立つ 

どちらの意見にしろ、現実は、そのように信じているだけだということ
私自身はどうかというと
「あの世」に関しても「神(創造主)」の存在に関しても
有るという事を信じています
信じるという所を越えているでしょうか

その理由は、小さい頃から不思議な体験をしている事
陶芸を通じても思わなければ何も始まらない事実
私以上に不思議体験の中に居る友人知人のこと

そして、色んな犯罪や色んな不幸を創り出している人達の認識はどうかと考えると
どう考えても死後の世界にしても神にしても「無い」という考えの人達でしょう

ただ、宗教者という人達であっても
神を自分を観るように小さな存在と観ている傾向が有る
「宗教」を頼る、救いを得るというように
自分を中心に観すぎている傾向が有る
確かに「救い」は有るだろう

しかし、その前提には「神の願い」があるということ
陶芸でも創造には何らかの願いが込められている
その神の願いが一部の信じている人達のみに限定されるようなそんな小さな願いで有るはずも無い
信じる者達だけに恩恵を与えるというようなものでもない
道を踏み外している子や孫の事が気にならない親が居ないように
究極の神は、悪人にも善人にも
その「愛」の願いを降り注がれているはずだ

陰陽両面を観ずして
両目を開けることなく
正しく世界を観ているとは言えないだろう



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