陶玄郷

フラクタルの森で薪だけを使い備前焼を焼きながら迷走、瞑想している玄明のホームページ

FrontPage/2018-05-23

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アメリカンフットボールの反則事件

この事件も結果至上主義のなせる業

指導陣の中にも微妙なすり替えが有り
言葉も狂い人々の心が狂ってくる
そして、悪しき結末を迎えることになる

元々、スポーツの中には反則行為が規定されているように
競う中に危険行為がつきまとう
なんでもそうだろうが、放置すると殺し合うところまで行ってしまう

かといって、危険行為をしないように気を付けすぎていると
思い切ったプレーが出来ずその競技にも勝つこととが出来なくなるだけでなく
格闘技に近い競技などではそもそも協議の意味すら無くなることもあるだろう


反則にも、よい子悪い子普通の子がある

今回の場合は、明らかに悪い、最悪の反則である
その原因は、明らかに結果にこだわりすぎていること
客観視が出来ていないのは明白だ

本来、客観視が出来るためには、信仰心が不可欠なのだ
反則を繰り返していてもブレーキをかけることが出来なかった
神仏の視点から観るまでも無く
多くの人々から見ても明らかに異常なことは分かりそうなものなのに・・・・

悪魔にでも魅入られてしまっていたのだろうか

勝ち負けを競う中にも
本当は「愛」に関わるような要素が無ければ意味が無い

勝ったところで美しくも無く感動も無く醜いだけだろう

合気道などでも、有名な師範が模範試合の中で対戦者に対して
ほとんど手を触れることなく倒していく映像を見たことがあるが
この時にその方が言われていた言葉が印象的だ

相手を打ち伏せようと思っていると
そのような現象は起こらず
包み込むような「愛」に似た感情が内面に無ければならないようだ
と、おっしゃっていた

商売でも
儲けようとする結果(陽)ばかりを中心に置くと問題が起こる
商品やサービスで「愛」(陰)に通じるようなマインドで商売をする必要がある
二つの視点が必要なのだ

どうやら、この宇宙
全ての事柄は、「愛」という要素を含んでいるようなのだ
全ての存在の中に愛の翻訳された姿があると思える

良い反則という事は、変ではあるが
この切磋琢磨という愛が含まれたプレーであるなら
見るものにも感動を与えるプレーとなるのだろう



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