陶玄郷

フラクタルの森で薪だけを使い備前焼を焼きながら迷走、瞑想している玄明のホームページ

FrontPage/2017-10-22

Top / FrontPage / 2017-10-22

無宗教(唯物論・無神論)ゆえの偏見

中学の模擬投票で幸福実現党に入れたら「無効票」にされ、注意を受ける
http://the-liberty.com/article.php?item_id=13679
先日、19日に書いたことが学校教育の中にもある
まさか、そこまでは・・・というか
まさに異常な事態


このことが示すような実際の選挙結果だった

知人の意見にもよくあるのだが
「幸福実現党」の政策には賛同できるが
宗教団体が背景に有ることがネックになっているという
まさに、この点だろう

しかし、私のこのフラクタルの森から見ればそれこそがとても大事な論点なのだ

結局色んな各党の政策が有るが
それらの意見の違いがどこから来ているのかと言えば
釈迦の八正道から言っても正見と正思の部分である
(正見・正思・正語・正業・正命・正精進・正念・正定)

世界を正しく見ているのか
客観的に見てその思いの中身は恥ずかしくはないのか
この悟性の中心部分の認識は難しく深く考えなければ考えることすら出来ないだろう

しかし、大きく見れば
具体的な内容の考え方の違いは、
その人ががどのような宗教観を持っているのかでだいたい決まってくる

無宗教・一神教・多神教・至高神

最悪なのは無宗教である
これは、動物レベルから出られていないことを指す
どれほど正語・正業・正命・正精進ができようと狂ってくるのだ
言い換えれば、どれほど高学歴であっても愚かな判断しかできないことと一緒だ

日本人の多くが「私は無宗教」だと言われる
しかし、神仏を否定している人は少なく「多神教」のかたが多いのだ
生活の中にキリスト教や仏教や神道などを受け入れている
何をどのように信じているのか深く考えることは無いけれどぼんやりとながら信仰心は有る

ただ、「信仰心」という言葉には抵抗が無くても「宗教」と言えば
悪い宗教が流行ったりしてイヤな印象が有るのも現実だ

しかし、しかし、
ぼんやりと無宗教を標榜するのは良いだろうが
本当の意味で「無宗教」を信じるようになると「信仰心」など無いことになる
主なる考えは、結局自分や自分たちになってしまう
世のため人の為と言っていたとしても、自分たちが主体であり
自分たちに賛同できない人たちは排除されることになる

正しい客観視が出来ないのだ
客観的に見ると言ってもその第三者は、自分の物差しに合う人でしかない

全人類の親で在るならどう見るだろうかという視点が必要
自分と違う反対の意見であっても、神仏から見ればどうだろうか
と、考える必要がある

今一度、自分自身の心の中を検証し
正しく「宗教」を見る必要があるでしょう
正しい「信仰心」を持つ必要があるでしょう

それをしなければ、
今回の選挙公約でも
明らかに神仏の視点から見ようと努力すれば見えてくるモノがある

皆さんは、自分自身の都合に合わせて小さな世界の中で判断していませんか
神仏の目から見て目を背けたくなるような政策が多いようだと
神仏は、本当に目を背けて積極的に天罰を落とされることが無くても
天変地異などの成すがままに放置されるでしょう

この台風の直撃もそうかもしれないし
北朝鮮からの核ミサイルの恐怖にしてもそうかもしれません

本当の世界は、神仏が
深い慈愛の目で全ての人を魂の成長を見守ってくださっているのが
この世界の真理であると思うのです

イエスキリストもお釈迦様も天照大神もマホメットも
様々な天使達も様々な菩薩達も様々な神々達も
心配しながらも期待して見守ってくださっている世界が
この世界だと思うのです

至高神が願われ産み出された魂の尊厳を無に帰してしまうような
「無宗教」を受け入れてはいけません


コメント


認証コード(2342)

powered by Quick Homepage Maker 5.1
based on PukiWiki 1.4.7 License is GPL. QHM

最新の更新 RSS  Valid XHTML 1.0 Transitional

備前焼