陶玄郷

フラクタルの森で薪だけを使い備前焼を焼きながら迷走、瞑想している玄明のホームページ

FrontPage/2017-10-17

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政治と宗教(無宗教・一神教・多神教・至高神)

政見放送など聞いていて思うこと

各政党の言葉を、何も考えずに聞いていると
どの党も良いことを言っているように聞こえなくはない

しかし、その意見は対立している
同じテーマでも意見が反対になるのだ

その原因は何だろうかと考えるとその原因には2つ有る


一つは、人が考えるという仕組みの中にあり
もう一つは、それを支えている人生観、世界観、宗教観の中にある

人はどうやって考えるのか
そもそも、考えるとはどういう事なのか
いろいろと情報を駆使して一番ベストなモノを選ぼうとするのだが
私は、次の図のように3点での視点が大切だと考えている
画像の説明

この図は人間の右脳、左脳という
頭脳構造にもフラクタル理論の如く深く関連している
要するに、感覚(感情)と論理(理屈)の両方を使って考えるのだが
人間は、ややもすると片方だけで考えがちなのだ

もう一つが、
この考えるという事が、あるモノを土台・背景としてなされる
それは、図にある仏神の部分である
要するに世界観、宗教観、その人の精神性がどこにあるのかということが背景に有る

どんな人も宗教観を持っていない人はいない
動物と人間とを分けているのが信仰心で有るとも言われているが
深い精神性無く生きている人は、原則いない

その宗教観を大きく分類すると

「無宗教・一神教・多神教・至高神」になるだろう
それぞれの精神性がどこに有るのか簡単に分類は出来ないけれど
第3の視点、より客観的な視点をどこに求めているかという世界観である
無宗教では、もちろん、この第3の視点を持ってくることは難しい

私自身の考えは、「至高神」にある
多神教の世界観ではあるが、神々にも認識力の差が有り
人間社会と同じくピラミッド構造になっていると考える世界観
全人類が神仏の子供であり、魂的には兄弟でも有るが
たとえば、北朝鮮の指導者や国民達のように考え違いをしているような人たちも居る
様々な人たちが居るが、より高次なモノを求めていこうという世界観

北朝鮮や中国共産党は「無宗教」である
「無宗教」ということは、結論的に言うならば客観視が出来ないのだ
自分と言うところの小さな世界の中だけで考えているにしかすぎない

これは、言い換えると動物的な論理である
今の政治が汚く見えるのは、無宗教、一神教(拝金教)の人たちが政治(まつりごと)をおこなっているからだろう
せめて地球神、全人類の親としての視点が大切であり
その神仏の願いがどこに有るのか忖度するとともに
私達が生きている世界の真実を知る必要が有る
画像の説明

死ねば全てが終わる世界と
死んでも霊的世界が有り、転生しながら魂の向上を願われている世界では、
同じ政治的なテーマでも違った意見になってしまうからです

この世界観の上に、更に、神仏なる存在を認めないとするなら
正しさの基準は、自分や自分たちだけが主になってしまいます

まさに、けだものたちの世界が展開することになるでしょう
そんな世界を神仏は、放置されるわけが無い
この地上生活が魂の堕落につながるようなら、
悲しみの涙と共に、自滅するのを放置されるか
自らの手で、天変地異という形で滅ぼすしかなくなるでしょう



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