陶玄郷

フラクタルの森で薪だけを使い備前焼を焼きながら迷走、瞑想している玄明のホームページ

FrontPage/2017-08-05

Top / FrontPage / 2017-08-05

死後の世界の有無を最初に考えた時)

30歳のころ、今後の人生に対する姿勢を決めようとして考えた

①死んだらそこですべてが終わりなのか
②死んで終わりではなく、思いは残り責任は残る世界が有るのか

紙の商売を始め、ベネッセ(福武書店)などが得意先で
順調に収益を上げ会社も作ったころに考えたことです

そのころ、少しヤンチャな友人もいて
モーターボートやヨット、ジェットスキーなどで遊んでいました
まだ、独身だったので
やりたいことをやっている反面、生真面目な部分もあり
心の中で色んなことにブレーキをかける思いも強かったのです
なんで、やりたい放題のことをしようとするとブレーキがかかるのか分からなかった

悶々とする中、そこで、人生とは何だろうと考え
生き方の方針を決めようと思ったのです

そのころの私の世界観は、「無宗教」でした
宗教にはヘドが出るというか、とても嫌いで
転生輪廻ということも知ってはいましたが深く考えてはいませんでした
しかし、人生を生きるにあたり、
死んで終わる世界とそうでない世界では、生き方は違ってくる
その世界に合わす必要があると考えたのです

そこでやった想定問答は、図に書いたようなことでした
もっと単純でしたが、先入観を捨て両方を見てみたのです
白紙の上に2つを並べて考えました

画像の説明
出た答えは「わからない」でした
現実はそうですが、真実はどちらかであるはずです
そこで事実を探してみました

しかし、どちらも証明することはできません
無いことに加担する、情報と
有ることに加担する、情報
それを、「わからない」という答えの両側に書いていったのです

無いことに加担する情報は、皆無でした
有ることに加担する情報は、聖書にしろ仏典にしろ、民間伝承にしろいろいろとあります

さらに、私は、一時、念力とか透視力ということに関心が有り、いろいろと訓練もしていたせいで科学では説明のつかない経験を数多くしていました
ユリ・ゲラー全盛のころです

そのように、科学で証明できる世界を超えたモノがあると実感していたことが
死後の世界は、おそらく有るだろう
強く念じたことは、物理的な力になるということは
そのような思いのエネルギーが消えて無くなるとは考えにくいと思いました

その時の答えは、こうでした
「死後の世界は有るか無いか分からない、おそらくは、有るだろう。その細かなことはさらに分からないけれど、おそらく、生真面目に生きようとすることには何らかの意味が有るはずだ」

やりたい放題のことをやろうとする心の声よりも
生真面目にやろうとする心の声に従おうと考えたのです

その後、何かをさらにやらなければならないような気分になって
とりあえず
自分が楽しいことは人も楽しいはずだからその方向で仕事を広げていこうとして
スノーボードも作り販売したり
ジェットスキーにも関わっていこうとサーフショップと共同で海岸の漁協の土地を借りて基地を作ったりしました

ところが、その方向は、私にとっては違っていたようでした

その後経営が低迷する中
原点に戻りゆったりとした時間の中で深く考える期間を得ました
さらに精神世界へ入り込むようなご縁がいっぱい出来て
その中で陶芸の道も示されたことで
砥部焼の世界にもご縁が有ったことから
備前焼の道へ転身することになったのです

色んな不思議な人たちとのご縁を経て
「幸福の科学」につながりました

そして、その学びのおかげで、過去の不思議な現象の意味やその背景を、今は理解することが出来ています

今回は何が言いたいかと言えば
生きている世界が違えば、生き方は変わるという事
変えざるを得ないという事

死んだら、全てが終わるのなら
本当にそうであるのなら
今、私の生きるスタンスは、間違いです
単なる自己満足であり、偽善者です

その逆なら、絶対に必要なものが在ります
それは、信じるということです
何を信じるかということ

真理を探究するに、もう一つ、
「神仏なるものは、居るか居ないのか?」という想定問答が有りますが
このこととも関連しますが
「信仰心」です

親の中でも最高、最善、最強、最良なる存在を信じること
全人類の親である存在がおられること
その親から観られて恥ずかしくない生き方が出来ているかどうか

まさに、ここにつながっていくのです

父母が子を心配してみているように
神仏は、私たちを見てくれています

そうであるから、誰からいろいろ言われなくても
生真面目に生きようとする心が沸き起こってくるのでしょう
その思いを無視して
目先の自分の欲得のままにやりたい放題のことをやっていては
悪魔に魂を売っていることになります
まさにそうなのです

そんな人たちが繁茂する世界なら、究極の親である神仏たちが許しておかれるはずは有りません
そのような人たちが拡大再生産されるような社会になっているとするならば、当然、反省を迫られるはずです
それも出来ないとするなら、見えないところで力を加えることなく
自滅する姿を涙を流しながら観ておられるかもしれません
そうなる前に、天変地異などを通してこの文明に終止符を打つことも検討されることでしょう

「信仰心」とは、ご利益をもらう事と考えている人が多いですが
それだけしか見ていないとするならば、間違いです

私たち各人も神仏の子です
自分たちで考えたとしても、神仏は、どこに感動され
どこに天上界の協力を惜しみなく注いでいこうとされるか想像できるでしょう

画像の説明
自分の中にある最善、最高、最良、最強の部分で考えるならわかるはずです
フラクタルで全てはつながっているのですから



コメント


認証コード(9424)

powered by Quick Homepage Maker 5.1
based on PukiWiki 1.4.7 License is GPL. QHM

最新の更新 RSS  Valid XHTML 1.0 Transitional

備前焼