陶玄郷

フラクタルの森で薪だけを使い備前焼を焼きながら迷走、瞑想している玄明のホームページ

FrontPage/2017-07-08

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国の税収が減少している

財務省は、昨年度の国の税収が、前年度より0.8兆円少ない55兆4686億円であることを発表した。
その理由を様々に言い訳しているが、明らかに消費税の増税で消費にブレーキがかかり
マイナススパイラルに落ち込んでいることから目をそらそうとしている。

「消費が減る→企業の売り上げが減る→給料が減る→さらに消費が減る」

財務官僚たちは、官僚の中でも頭脳明晰な人たちが多いというが
どうやら陰陽の両目が開いていないようで、
そのせいでアクセルとブレーキの操作を間違えているようだ。

財務官僚たちは、おそらく次のような内容で動いているのでしょう
フラクタルの森の4つの空間を埋めてみます。

どうしたい    結果(目標) 税収を増やしたい
どのようにして  方法     消費税の税率を上げる
なぜ       目的(動機) 財政規律のため   
なにを      課題     国税(政治経済) 

なぜ(目的)に入ってくるのは、プライマリーバランスのため
財政赤字を減らし財政均衡させようとしたいのでしょうか

これで、本当に適切なもので埋められていると言えるのでしょか

そもそも、通貨を発行することのできる国家が
ことさらお金の出入りを気にするべきなのかという問題もあります。
赤字が増えることが有っても
国力が増し、経済が健全に発展できるような投資のために出費が増えたとしても
結果として国家としての信用が失われなく、その信用度がさらに増すような支出(赤字)であるなら、目先、表面的に赤字が増えたとしてもなんの問題もないはずです。
(付則・・信用を求めるべきは投資家や経済評論家だけに求めるべきでなく、神仏からの信用評価であるべきです)

逆に、財政規律を気にして出費を抑え、インフラの崩壊や経済競争力の低下を招くようならば、たとえ黒字で推移したとしても国家の衰退を招いてしまいます。
福祉を十分に充実させて、国民の安心を提供できたとしても、それが国力を増やしていく方向につながるのなら良いのですが、国民の努力精進を喚起することにはならないでしょう。

結局は、陰の部分、正見と正思が出来ていない
その前提部分に間違ったものが入っているために
どこにアクセルを踏みブレーキをかけなければならないかの判断が狂っているのです。
まさに、そのような状態の方たちにハンドルを任せてしまっているのです。

本来、この部分「なぜ・・・目的(動機)」に入るべきなのは、「与える愛」に準じるものです。
良かれと思ってやっていても「奪う愛」の状況になっている可能性が有ります。
ここに、神仏から見られても応援したくなるようなモノが入らなければプラススパイラルは起きません。

結局は、政治家や財務官僚、経済評論家たちの「なぜ・・・目的(動機)」の所に入っているものが問題なのです。
自由にできるお金の量を増やしたいだったり省益や官僚の地位向上であったり「奪う愛」的なものが入っていると
表面的に良さそうに見えていてもマイナススパイラルの流れに入っていきます。

そもそも、財政赤字の問題の多くは福祉政策の中に有るでしょう
公的年金制度でも、見方を変えれば、国家の運営しているネズミ講です。
政府が票目当てでバラマキをしてきた累積でもあるでしょう。
犯罪レベルのことを運営するために税収が足りないとして増税するとは・・・・

そもそも、なぜ税収を増やさなければならないかという問題もありますが
たとえ、その結果にこだわったとしても、前段の部分を変えなければ
その願いはかなえられないでしょう

どうしたい    結果(目標) 税収を増やしたい
どのようにして  方法     減税で消費を喚起し景気を浮上させ
なぜ       目的(動機) 経世済民(世を治め、人民を救うこと)       
なにを      課題     国税(政治経済)

くどいようですが、国家の税収を増やし健全な政治経済を営みたければ
国民の幸福を願う必要が有ります
消費にブレーキをかけ、国民に我慢を強いて、無駄なバラマキのための経費で多くの人的資産を腐らせていては、国は滅びへと向かいます。

多くの頭脳明晰な方々が、ついついマイナススパイラルの選択をされている原因
その原因は何かというと
正思と正見が出来ていないせいです。
そのために後の行動や結果が狂ってくるのです。

正思 なぜ・・目的(動機)     思いの中身が美しくない・奪う愛
正見 いつ、どこで、だれが、なにを・・世界観(宗教観)  深く考えず世界を誤認している
 
そもそも、一番大切な「信仰心」が無いはずです。
神仏を認めず、主なるものを神仏に置かず、全ての発想が「自分」もしくは「自分たち」を主体としてしか考えることが出来ないせいです。

例え神社仏閣で手を合わせていたとしても
神仏を主体として考えず「奪う愛」での願い事になっているはずです。



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